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雪国に築いたチューリップ王国


〜 水野豊造の一途な人生 〜



  この4月23日から、富山県礪波市で「チューリップフェア」が開催される。今年で48回を数えるこの祭典には350品種・100万本のチューリップが咲きそろい、 40万人からの人出が予想されている。

 チューリップは「富山県の花」である。我が国の栽培面積は約500ヘクタールだが、その半分を富山県産が占める。球根数でいうと、5,500万個。だがその源はたった10個ほどにあった。 大正7年、当時21歳の農家・水野豊造(みずの ぶんぞう)が植えつけたものである。

イラスト

チューリップ、花と球根、そして農具(掘取具)
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
  はじめ水野は<こんな栗みたいな物が>と思いながら、カタログで取り寄せた球根を植えたという。しかし翌春雪が消えると深紅の花が咲き、飛ぶように売れた。 だがやがて彼の関心は切り花から、より利益の多い球根生産に移っていく。商品にならない不開花株を掘り取ってみたら、翌年に向けてまるまると太った子球が育っていたからである。

 <富山の土は球根栽培に適するらしい。水田裏作に有望なのでは…>さっそく新潟などの先進地に通い、品種や栽培法などを勉強した。大正12年、水野は本格的な球根栽培に踏みきっていった。

  雪深い富山には適当な水田裏作物がない。そこに生まれた球根栽培は農家に歓迎され、急速に普及していった。ここで水野は仲間に呼びかけ、出荷組合を結成する。 品種の計画栽培を実現し、良品質の球根を海外にまで輸出するのが彼の夢だった。

  太平洋戦争による輸出停止や敗戦など苦難の連続だったが、「機関車」とあだ名された彼の活動は止むことなかった。最盛時2,000万個の球根を輸出した富山チューリップの実力は、 彼によって培われたといってよいだろう。最近は国内向けが増えたが、依然高い生産量を誇っている。

  球根栽培では技術が命である。つねに品種更新や病害に細心の注意を払わねばならない。だが水野が栽培をはじめた当時、国や県に研究を期待するのは無理だった。 国が富山県に指定試験地を設けたのは昭和22年である。彼は自ら技術開発に立ち向かっていった。

  チューリップの品種改良は交配種子から球根を育て、開花させるまでに7年かかる。「花の咲くのを待つ時の気持ちはとても言葉には言い表せない」と水野は述懐している。 彼が育成した「王冠」「天女の舞い」などの七品種は昭和26・7年に登録された。我が国で育成された最初のチューリップ品種である。

  水野の他にも品種や農具の改良に挑戦した農家は多い。礪波市にある「チューリップ四季彩館」には、彼らの手になる農機具が展示されている。球根植え付け定規や掘取機、選別機など。 その一つ一つに、営々と積み重ねられた農家の創意が輝いてみえる。

  昭和43年、水野は69歳で亡くなった。生涯、酒たばこはもちろん、茶も飲まず、湯しか口にしなかったという。チューリップ一筋の、ひたむきな人生だった。
「農業共済新聞」 1999/04/07より転載  (西尾 敏彦)


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