仁部富之助の野鳥の研究は今日の 動物行動学の先駆的研究と評価されている 【絵:後藤 泱子】
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大正のはじめ、秋田県花館村(現大曲市)の雄物川河原で、熱心に野鳥を観察する変わり者がいた。仁部富之助(にべとみのすけ)、近くの農事試験場陸羽支場の技手であった。仁部はのちに「鳥のファーブル」と呼ばれ、
わが国野鳥研究の祖と仰がれる。だがこの人が、有名な水稲「陸羽132号」の育成に深くかかわったことを知る人は意外に少ないようだ。
我が国の人工交配品種のさきがけとなった陸羽132号は大正10年に農事試験場陸羽支場で育成された。国内で人工交配が始まったのは明治37年だから、かなりスピーディーな誕生といってよい。
育成者は普通寺尾博といわれている。たしかに彼がいなければこの大品種の誕生はなかっただろう。
寺尾はのちに農事試験場長になる作物育種の先人だが、当時は新進の研究者。交配育種法をもっとも早く習得した一人だった。明治四13年、本場兼任のまま、陸羽支場種芸部主任として着任する。
ちょうど東北各地に冷害が頻発していた時期で、彼に期待が集まったのは当然といってよいだろう。
寺尾が赴任したとき、助手に抜擢されたのが仁部である。もともと鳥好きの仁部は、農学校を出てすぐ試験場の養畜部に勤務するが、寺尾の着任とともに種芸部に配属された。
彼の研究熱心が評価されたのだろう。ここから2人の品種づくりがはじまった。
陸羽132号の親は、冷害に強い「陸羽20号」と良食味の「亀ノ尾」。両者の長所を活かそうというのが、交配のねらいだった。交配はハサミとピンセットを使った細かな作業。
風に邪魔されないよう温室で行うのだが、開花期の8月の温室はまさに灼熱地獄だった。2人とも素っ裸でこの難行に耐えたそうだが、得られた種子はわずかの2粒だった。
当時の技術はまだ未熟だったのだろう。
じつはこの直後から、寺尾は海外に出張している。大切な種子を預かった仁部は、心配で夜も寝られなかったという。さいわい翌春に種子は発芽し、以後、増殖・選抜と品種改良を進めることができた。
陸羽132号の育成には7年を要したが、寺尾の関与は最初の2年で、以後は後任者と交代している。在任中も東京とかけもちで不在がちだったというから、主要実務の多くは仁部が受けもったとみてよいだろう。
寺尾自身も後年、仁部の「異常の苦心と努力」を称え、謝辞を述べている。
陸羽132号はその後普及に移されるが、とりわけ真価を発揮したのは、昭和6〜10年の大冷害のときだった。このときの冷害をうたった宮沢賢治の「稲作挿話」に、つぎの一節がある。
「君が自分でかんがえた/あの田もすっかり見て来たよ/陸羽一三二のはうね/あれはずゐぶん上手に行った」当時の東北農民にとって、この品種は希望の星だったにちがいない。
昭和14年には最高普及面積24万ヘクタールにまで達している。
仁部は大正13年に陸羽支場を退官。以後、農商務省嘱託として野鳥研究に生涯を捧げる。彼の大著「野の鳥の生態(全5巻)」には、寺尾への謝辞が掲げられている。
公務のあいまに鳥の観察を許し、助言まで与えてくれたという。スズメは稲作に関係ありというのが理由だった。2人の間には研究者だけに通ずる心の交流があったのだろう。
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