アタマジラミのことをケジラミと称する人もいるが、本物のケジラミはヒトの陰毛部に専門(例外的に眉毛や口髭にも寄生することもある)につく吸血性昆虫である。体長1.5o内外で、小さくカニみたいな形をしているので、英語では“クラブラウス(カニジラミ)”と呼ばれている。成虫も幼虫も中・後脚の爪で毛根部にしがみつき、頭を皮膚に突っ込んで1日に数回吸血する。刺されたあとに青い斑点が生じ、たまらなく痒くなる。 雌は毎日2〜3個くらいの卵を1カ月にもわたって生み続ける。アタマジラミと同様に卵は毛に接着剤で貼りつけたように着いているので、洗ったくらいではとても落ちない。成育期間は約1カ月、あまりの痒さに仔細に調べて愕然とするのもそのころである。 昔、確実な対処療法は毛を全部剃って、卵を除去するとともに、虫がつかまる場所をなくすことであった。また、戦後、農業用の毒性の高い有機燐剤が登場すると、ケジラミ退治にこれを陰部に塗りつけて死ぬ人まであらわれた。さしたる病気も媒介しないこの虫が人命にまでかかわったのは、後にも先にもこの時期だけであったろう。 この虫が「紳士・淑女の口にすべからざる虫」なのは、寄生する場所が場所であることと、伝播経路がもっぱら“不潔な性交渉”によるからである。だから、その予防法はじつに簡単で、ケジラミを持っていそうな人との性交渉を避ければいい。 |
こうした事情から、万が一持ち帰ったら家庭での一悶着はまぬがれない。昔からそうであった。諧謔を喜ぶ江戸庶民の鋭い感覚がこの格好の題材を見逃すはずがない。川柳はうたう……。 鳶じらみ(ケジラミ)女房にゆすりぬかれたり 飛びじらみ おいらじゃないと 女房いい 毛虱に 尼と入道 二人出来 もちろん、当時の庶民はケジラミとほかのシラミを正しく識別していた。石川雅望が江戸時代後期に書いた『しらみのすみか物語』にはこんな話がでてくる。 さる翁がシラミを口から飲んで、それをからだのあちらこちらからふたたび取りだす芸で人を驚かせた。最後に、「ふぐりからだせ」との注文に応じて、「ふぐりなるひげ掻きよけつつ」取りだしたものは、初めのものとはまるでちがう「形ひらめなる物」(ケジラミ)で、珍芸のタネがばれてしまった。 ケジラミは戦後の混乱期に全国的にはびこったが、1960年代ころから急に勢力が衰えていった。1970年にぼくが調査で中米のコスタリカに滞在していたとき、アメリカの昆虫学者のグループがやってきて、実験材料としてケジラミを1匹50セントで買い集めているという話を聞いた。今ならば、千円ほどにも相当しようか。ケジラミの衰退は先進国では共通の現象だったらしい。急速な生活の向上と、おそらく当時新登場のDDTなどの新殺虫剤の働きによるものであろう。 ほかのシラミの場合と同様に、そのケジラミに近年復活のきざしがある。理由は海外渡航者の急増による副産物という。また、絶えて久しき幻の虫に対するまさかの思いも対応を遅らせているに違いない。本人の自己申告がないので、正確な数値はつかめないが、すでに潜在勢力はかなりのものらしい。 ケジラミはまれに性交渉以外でも移ることがある。戦争中前線のドラム缶風呂によって、一個中隊全員があらぬ場所をボリボリ掻いた事例が多かった。と、経験者から聞いた。ただし、これは大量の保虫者による風呂の共同利用という特殊事例で、ケジラミは水の中では毛根に一層しがみつくので、通常の旅館やホテルの風呂を通じて移ることは少ない。しかし、ぼくのささやかな経験に照らして、少ないということはまったくありえないことではない。ただし、こうした不運に見舞われても、現代では前回紹介したシラミの特効薬が抜群の効果を発揮するので防除は簡単である。 ぼくは以前に衛生害虫の図鑑をだしたことがあるが、そのときケジラミの生態写真の入手に大変苦労した。しかも本がでたらその写真のソースはぼく自身だといううわさが流れて往生した。今後もしケジラミに取りつかれた人がいたら、駆除は簡単ながら、写真は貴重である。そっと連絡してほしい。 [研究ジャーナル,18巻・1号(1995)] |
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