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1945年、夏

 その夏、ぼくは松本市郊外の軍需工場で、来る日も来る日も、貨車の石炭おろしに明け暮れていた。東京で動員された工場では、飛行機の部品の規格を計器で測定するのが仕事で、 やや技術労働的なふんいきがあったが、ヤワな東京の中学生にとって、疎開先でのこの思わぬ重労働はこたえた。とくに、「トキ」と略称される大型貨車を割当てられたときなどは、 いつもその車体を見ただけで腰がくだけそうになった。いきおい、ほかのみんなよりもぼくはたよりにならない労働者であった。今でいう「番長」にはよくなぐられた。

あこがれだった上高地 (岡本昌三氏 原図)

 当時「側線」と呼ばれていたわれわれの作業班は、戦争にいった若者のかわりに市内の商店などからかり出された年輩のおじさんと、動員中学生で編成されていた。 いつも昼休みになるとおじさんが興味深い性教育講座を開講し、中学生に人気があったが、ぼくはこれをほとんど欠席した。明日のことはわからない日々のなかで、 昼休みの昆虫採集がぼくにとって唯一の生きがいだったからである。工場の構内だけであったが、このときばかりは瞬時でも信州で採集しているしあわせを味わうことができた。 また、たまには石炭のかわりに工事用の原木丸太を積んだ貨車が到来し、図鑑でしか見たことのない南国の甲虫をもたらしてくれた。そのうち、 おじさんたちも虫を拾うとぼくに持ってきてくれるようになった。それはたいていつまらない種類であったが、全身で感謝の意を表してそれを受け取る「知恵」も身についた。

 そのうち、同級生のY君が昆虫採集に興味を示し、弟子入りを申し込んできた。ぼくは喜んでとぼしい採集用具を分け与え、彼に親身の教育をほどこした。 しかし、彼はたちまち一本立ちしてしまい、構内最良の穴場であったヤナギの大木群も彼が共有するところとなってしまった。しかも、ただでさえ収穫がへりはじめたことがおもしろくなかったことに加え、 ある日、Y君はその穴場でみごとな一対のオオクワガタをものにした。ぼくにとってはかねてからのあこがれの虫で、とくに雄の巨大な大あごのみごとさには思わず目がくらんだ。 ぼくはかりにも師であったことを理由に強くその所有権を主張したが、彼は頑としてそれを拒否した。それどころか、彼は満座のなかで雄の大あごに自分の指をはさませて、 痛くもないのに「ヒーヒー」叫んで見せびらかした。

 このことのわだかまりから、決行がおくれていたが、じつはその夏、Y君と上高地に採集に行く約束がしてあった。

 工場を何日も休んで「あの上高地」へ行く。ただそれまでは、どんなにつらくても工場を休んではならない。わずかな慰労休暇をそのために温存し、 頭のなかはこの破格で甘美な夢でいっぱいであった。時には手にしたスコップが捕虫網に、飛び散る石炭が花にむらがるカミキリムシに見えた。

 まもなく、捕虫網一本とオオクワガタを交換することでY君と和解が成り、計画をねり直し、その決行日がきまったとき、暦は8月に入っていた。

 松本でぼくは叔父の家に世話になっていたが、ある夜、赴任先の九州から帰宅した叔父の話は恐ろしかった。帰路、広島で戦災のかたづけをやらされたという。 一発の爆弾で全市が崩壊し、人も馬も片側が焼けただれ、あれは殺人光線だ、と。東京の大空襲を見ているぼくにしても、叔父の話は異様だった。 なんとなく上高地には行けなくなるような予感がした。

 工場で全員が集まって聞いた「玉音放送」はよく聞きとれず、だれも意味がわからなかった。「側線」のおじさんが「敵が残虐な武器を使ったから、 日本も使うと天皇陛下が言われた」とみんなに解説した。

 終戦は午後の作業中に知った。数日前に父親の戦死の公報のあった級友が、貨車を押しながら大声で泣きだした。続いてみんなの涙が鉄路に落ちた。

 ぼくは14歳の少年であった。

 ふしぎに、この不毛の夏の虫とのふれあいは、今でも鮮明に想い出される。それから6年ののちに、ぼくははじめて上高地を訪れたが、なぜか鮮烈な感激はもうなかった。

 その後Y君は東京で眼鏡店の主人におさまっている。オオクワガタの標本はやや破損したが、現在、神奈川県立博物館に所蔵されている。叔父は戦後、 地方の裁判所で判事をつとめ、1960年に亡くなったが、二度とぼくに「ヒロシマ」を語ることはなかった。

[インセクタリゥム,13巻・4号(1976)]



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