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忘れられた食糧難時代の恩人

〜中国でも広く普及〜


サツマイモ「沖縄100号」の松永高元



 8月15日がくる。敗戦のあの日を記憶している世代ならきっと「沖縄100号」「護国」をご存じだろう。ひもじかったあのころ食べた懐かしいサツマイモの品種名である。 あまりおいしくはなかったが、当時は最高のごちそうだった。私たちが飢えを凌げたのは、このイモのおかげといって過言でないだろう。

 沖縄100号の育ての親は、沖縄県農事試験場の松永高元技師である。護国も彼の手で交配され、三重県と高知県で選抜された品種だった。 こちらも松永が生命を吹き込んだ品種といってよいだろう。

 サツマイモは内地では花が咲かない。暖かい沖縄なら花が咲き、人工交配も可能だ。そこで農林省は昭和2年に「甘藷改良増殖試験事業」をスタートさせた。 沖縄農試小禄試験地に日本中のサツマイモの交配を委嘱する。できた種子か後代の〈ツル苗〉を内地に送り、各地の試験場で選抜した。護国のほか農林1号・2号など、 戦前の代表品種はほとんどこの方法で育成されたものである。

サツマイモ「沖縄100号」とその花。肥大するとミゾができたが、とにかくよくとれた  絵:後藤泱子  小禄試験地は現在の那覇空港近くにあった。試験地の初代主任が松永である。当時サツマイモは「国策」で奨励されていた。食用・でん粉原料用はもちろん、 航空機燃料のアルコール用としても重要だった。品種改良はとくに重要視され、松永たちは必死でがんばった。

 昭和14年までの彼の在任中、小禄試験地が交配した花の数は49万、得た種子数は16万粒に及ぶ。13年には1年間に交配した花の数12万、 5万6千粒の種子を生産している。目のまわるような忙しさだったろう。

 だが松永の最大の功績はなんといっても沖縄100号の育成だろう。多忙な交配作業のかたわら育てたものだが、早掘りに適し、多収で、 栽培も容易な品種だった。

 沖縄100号は昭和9年に世に出ている。だがこの品種が有名になったのは食料難が深刻になってからである。なにしろ肥料不足の時代に、 これほど多収な作物はほかにない。13年に育成された護国とともに、急速に全国に普及していった。22年には両品種で12万4千ヘクタール、 全国栽培面積の36パーセントを占めたほどである。

 余談だが、沖縄100号は戦争中に中国大陸にも渡り、戦後は「勝利100号」と名を変えて広く栽培されていたという。

 沖縄100号も護国も、今ではすっかり忘れられようとしている。だがこのイモがもつ抜群の多収性は、これからも貴重な遺伝資源として品種改良に生かされていくに違いない。

 松永は過労がたたり、沖縄戦直前に病のため鹿児島に帰る。戦後はしばらく鹿児島大学種子島農場の講師だった。作業衣・地下足袋姿でいつも畑に出ていたという。

 昭和40年に宮崎市で亡くなった。もはや食糧難など忘れられた時代とはいえ、あの食料難克服に貢献した彼の働きに比べれば、ごくひそやかな葬儀であった。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1997年8月13日 より転載


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