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自由化を跳ね退けたサクランボ

〜大正時代の夢と挑戦〜


佐藤栄助の「佐藤錦」



 昭和53年は、農産物自由化で米国産サクランボが我が国に輸入された最初の年である。当時、規模の小さな国産サクランボなど、 たちまち蹂躙(じゅうりん)されるのではと、随分心配したものである。

 あれから20年。我が国のサクランボはどっこい生きている。それどころか、自由化前3千ヘクタールに達しなかった栽培面積が、今では4千を越える勢いにある。 生食用品種「佐藤錦」に切換え、雨よけ栽培で高級化をねらった農家の作戦が見事に奏効したからだ。

 ところでこの殊勲の佐藤錦だが。実は昭和の初頭に、山形県東根(ひがしね)市の農家佐藤栄助が育成した品種である。佐藤はもともと味噌醤油業だったが、 株で失敗し、果樹農家を志したという。今風にいえば、企業マインドに富む農家だったらしい。スイカや納豆を東京に大量出荷し、見事に失敗したこともあるそうだから。

 そんな佐藤のことだ。サクランボの東京出荷を企むなど、ごく自然の成り行きだった。だが当時の輸送事情では品質が劣化し、売物にならない。 輸送に強い品種を探してみたが、見つからなかった。〈それなら自分で〉と決意したのが、品種改良に取り組む動機だったという。大正元年、彼が45才の時である。

「佐藤錦」の白い花とルビー色の果実  絵:後藤泱子  佐藤の品種改良は、輸送に向く果実の硬い「ナポレオン」と甘味の強い「黄玉」の交配からはじまった。驚嘆するのは、この時代に交配を試み、 しかも他の花粉の混入を防ぐため、袋かけまでしたことである。袋は古雑誌でつくり、油をぬったらしい。まさに当時のバイテク最前線である。

 交配で得た500あまりの種子からは、50本ほどが発芽した。ここから選抜を続け、最初に果粒が実ったのが大正11年。さらに熟期と食味・外観で選び、 最後に1本だけを残した。樹勢が旺盛で、果粒が鮮紅色で光沢に富み、上品な甘味をもつ中生種だった。

 佐藤錦が世に出たのは、昭和3年のことである。名づけ親は佐藤の品種改良を支え、その普及に尽力した岡田東作である。育成者の栄誉をたたえ、 〈砂糖のように甘い〉の意味もこめて名づけたという。

 佐藤錦の普及は必ずしも順調ではなかった。当時のサクランボは加工用が主力だったからである。だが自由化以後は、消費者に愛され、 今日では栽培面積第1位・6割のシェアを誇る。「こっちは日本人好みのサクランボだもんナ。アメリカのチェリーなど、問題ないス」と、 山形で会った農家は胸を張っていた。

 昭和25年、佐藤は83才で亡くなった。30年後に、佐藤錦が国産サクランボの危難を救わうなどとは知る由もなかったろう。

 今年もサクランボの季節。日本中の至る所で、あのルビー色に輝く果粒が目につくようになった。〈東京にサクランボを…〉の佐藤の夢は、 本人の期待をはるかに越えて、今、見事にかなえられたのである。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1997年5月14日 より転載


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