茶の香を決めた農民日本の育種家 |
静岡市の郊外、JR東海道線の草薙駅か、静鉄だと県立美術館前駅から南に1キロ余り、緑の豊かな丘陵地帯に県立美術館・県立大学などハイセンスな建物が並ぶ文化ゾーンがある。
ちょうどその中央の図書館の辺りが、茶の品種「やぶきた」の誕生の地である。
「やぶきた」にお世話にならない日本人はいないだろう。なにしろ我が国の茶園面積5万7千ヘクタールのうち、70.5パーセント3万8千ヘクタールが「やぶきた」で占められている。 昔ながらの在来茶園18パーセントを除けば、品種茶園の85.6パーセントが「やぶきた」だ。2位の品種が2.7パーセント、残りの品種は1パーセント台がやっとだというから、 桁外れの実力である(平成4年現在)。この分ではその地位を脅かす品種など、当分現われそうにない。 ところでこの品種が、地元の農家杉山彦三郎によって育成されたことをご存知だろうか。私たち日本人が朝な夕なに親しむお茶の香りは、 杉山が苦心の末に選び当てたものなのである。国・公立の研究機関がしのぎを削る品種改良の世界で、このスーパー品種を創り上げた一農民育種家の壮挙には最高の賞賛が贈られてしかるべきであろう。 |
杉山が品種改良に着手したのは、彼が30歳前後の明治20年代にさかのぼる。当時の茶園は種子繁殖で、雑多な茶樹が混じって生えていた。
良い葉を求めて毎日茶園に出た杉山は「茶樹には他の作物と同様に、早・中・晩の区別がある。これを別けて茶園を造れば、永く摘採製茶して、
しかも熟期の最も良い芽を摘むことができる。」ことを知ったという。彼が品種改良にとりつかれた動機である。
杉山は茶園の中から優良個体を選び、取木法を工夫して苗を殖やし、品種へと導いていった。今でいう「個体選抜法」で、単純な方法だが、 重要なのはそれをやり続けた彼の情熱である。せっかく集めた茶樹を抜き捨てられるなどの障害をはね除け、100余の品種を育成していった。なにしろ、 イタチと仇名されるほど熱心に畑をうろつき、前歯が欠けるほど茶の葉を囓んで回ったそうだ。 半世紀にわたる努力の結果、「やぶきた」ができたのは昭和になってからである。やがて静岡農試の比較試験で高い評価を受け、28年には農林省の登録品種になった。 農業はこれから多様化・個性化と、現場の技術創造能力がきびしく問われる時代に移つていくだろう。だからこそ、第二、第三の杉山がぜひ生まれてほしい。 地下の杉山もきっとそれを願っているに違いない。 「やぶきた」の原樹は駅よりの道路沿いに移され、杉山の顕彰碑とともにある。車が行き交う傍らで、大人の背丈をはるかに越える樹冠は今も濃緑の葉をいっぱいに茂らせている。 遺徳を慕う人々が建立した彼の胸像は静岡城趾駿府公園に立っている。 |
(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 1994年5月4日より転載
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