JR中央線武蔵境駅から歩いて10分。ここだけが武蔵野の面影をとどめる玉川上水に「うどばし」はかかっている。橋のたもとには、次のような碑文が立っていた。
「…今から180年位前より、この土地の人々は…落葉の温熱で軟化独活(なんかうど)を栽培して生活していた。近年栽培法がいろいろと改良されて早期に大量出荷され、
全国に東京独活特産地として有名になった。このたび由緒ある玉川上水への橋をかけるにあたって、特産地の名をとどめるため独活橋と命名されたものである」
「うどばし」の命名は、橋近くの農家高橋米太郎(たかはし よねたろう)の発案による。実はこの米太郎こそ、東京ウドの名を高めた「穴蔵(地下式)軟化栽培」の創始者だった。
軟化栽培は、あらかじめ養成した根株の植えつけからはじまる。彼がウドづくりをはじめた当時は「岡伏せ」が普通だった。
岡伏せは、醸熱材料の落葉や稲わらを踏込んだ深溝に根株を伏植えする。上部を細土や麦稈(ばくかん)で覆い、盛土する。厳冬には薦(こも)をかぶせ、
脇溝で籾殻(もみがら)を燃やして温めた。こうした努力の積み重ねが早春の軟化ウド出荷につながるのだが、なんとも手間のかかる栽培法だった。
農業の常識を破って、ムロの中で育てた軟化ウド 【絵:後藤 泱子】
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<もっと早取りができ、手間のかからぬ方法はないだろうか>米太郎が目をつけたのは、庭のムロ(穴蔵)だった。関東ロームの武蔵野では、どの農家にも桑葉や種イモ貯蔵用のムロがある。
3〜4メートルの地下で、奥行き4メートルほどのトンネルが十字に伸びる。真っ暗で年中16〜7度、軟化には絶好の環境だった。さっそく根株を持ち込み、試験にかかった。
太平洋戦争さ中の昭和18年のことである。
だが農業の常識を破るこの試みは苦労の連続だった。ウドの生育適温は20度。ムロを温めるため堆肥や練炭を持ち込んだところ、メタンや酸欠のため苗が腐ってしまった。
無論、作業者にも危険きわまりない。換気には特に気を使った。ウドはまた生長の際、多量の水を要する。暗く窮屈なムロ内で吸水し、均一に生育させるのは容易でない。
試行錯誤の繰り返しだったが、彼は挫(くじ)けなかった。大切な畑を手放してまで、試験に打ち込んだ。
苦心の末、栽培に成功したのは昭和26年。はじめて穴蔵軟化ウドを神田市場に出荷したのは1月19日だった。岡伏せに比べ1カ月以上早く、高値で売れたという。
米太郎はこの独創的な技術を、気易く仲間に伝授した。ただし気に入らなければ親戚(しんせき)にも教えない。頑固な人だったらしい。
もっとも、この技術は他人(ひと)から聞くだけで真似できるものではない。ムロ内の作業は、当人が体得するしかない。東京ウドの名声は、こうした特技を身につけた農家の力が結集し、
はじめて生まれたものだろう。
東京都のウド生産量は昭和40年代後半には3千トンを上回り全国生産の4割以上を占めた。最近は減退気味だが、なお地域特産として健闘している。
米太郎は昭和57年に82歳で亡くなった。新技術の導入など、終生をウドづくりにかけた<ウドに憑(つ)かれた>生涯であった。
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