マレーシアの水稲二期作には 日本人技術者の血と汗の努力があった 【絵:後藤 泱子】
(※絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
|
日本は厳冬の季節だが、常夏のマレーシアでは、今がちょうど乾期作稲の収穫期に当たる。最近はこの国を訪れる人も多いが、あの穂波の陰に日本人育種家のなみなみならぬ努力があったことを知る人は少ないだろう。
昭和40年の2月、西マレーシア北部のアロスターで、水稲新品種の誕生を祝う式典が挙行された。独立後、日の浅いこの国では、水稲新品種の誕生も国家的慶事である。
当日は農業大臣も出席し、1,000人に及ぶ参会者があった。式典では大臣自らが新品種に「マスリ」と命名、種子を農民代表に手渡した。ちなみにマスリとは、この国で敬愛される伝説上の王女の名である。
ところでこの式典には、もう一つの特筆すべき出来事があった。マスリの育成に貢献した日本人に、大臣の賞賛と感謝の言葉が贈られたのである。
日本人とは山川寛(やまかわ ゆたか)・藤井啓史(ふじい けいし)・川上潤一郎(かわかみ じゅんいちろう)・佐本四郎(さもと しろう)の4育種家。
昭和33年以降、同国中北部ブキメラ試験地に駐在し、この品種の育成に当たった。
話は昭和25年にさかのぼる。この年、国連食料農業機関(FAO)は東南アジア各国の食料増産を支援して、水稲育種事業(コロンボ計画)を開始した。
インドに集めた各国品種に日本稲を交配し、多収性を付与しようという計画だった。マレーシアには、その雑種後代から26組み合わせが送り返されていた。
なかば放置されていたこの材料を使い、山川が選抜をはじめたのが昭和33年。ここから4代・7年にわたる苦闘がつづけられた。ブキメラでの育種は容易ではなかった。
試験地といっても、水道も電気もない。裏山からはニシキヘビやコブラも訪れる。育種家としての<先を見る眼>と経験だけが頼りだった。
マレーシア政府の要請は、二期作用品種の育成だった。かつてのこの国は雨季にしか稲ができず、品種も在来種しかなかった。年2回の稲作をめざすには、
一・二期を通じて栽培可能な品種の育成が緊要だったのである。
彼らがめざしたのは<農民に親しまれ使ってもらえる品種>の育成だった。この目標で、最後に選び出したのがマスリ。少肥でも多収・良食味、ワラがほしい農家にも、
<使ってもらえる>品種だった。
マスリは最盛期の昭和48年には乾期作8.4万ヘクタール(42%)、雨期作11.3万ヘクタール(30%)まで普及した。他の東南ア諸国でも評価が高い。
インドでは最高71万ヘクタール、バングラデシュでは47万ヘクタール。かつて東パキスタンのバングラでは「パジャム」と呼ばれる。パキスタン・ジャパン・マレーシアの合成語らしい。
「緑の革命」以来、東南アでは多肥に向く短稈多収品種が普及している。だがマスリの人気は、なお根強い。<使ってもらえる>品種をめざした、40年前の日本人育種家の
<先を見る目>は、確かだったようだ。
帰国後、山川は佐賀大学に、藤井らは農林省に復帰したが、すでに退官した。残念ながら藤井は昨年亡くなったが、山川ら3人はお元気で、今も活躍されている。
|