拙著「農業技術を創った人たち」で「我が国の水稲直播面積は5万5千ヘクタールが最高……」と記したところ、北海道の友人に注意された。北海道では昭和のはじめまで、
16万ヘクタールにも及ぶ直播が存在した、内地の人は北海道を忘れて困るというのである。一言もない。お詫びして訂正しておきたい。
ところで、これほど大面積の北海道の直播を可能にしたのは、今ではすっかり忘れ去られている「たこ足」と呼ばれる播種器の存在だった。
たこ足は東旭川村(現旭川市)の農家末武保治郎(すえたけやすじろう)によって考案された。リューマチを病み、長時間冷や水に浸かる作業がつらいため、本器の発明を思いついたという。
彼のアイデアは近所のブリキ職黒田梅太郎(くろだ うめたろう)によって生かされる。明治38年に、連名で「籾種蒔器」の特許を取得している。
大正から昭和のはじめ、北海道に水稲直播を根づかせた 黒田式播種器と、その播種風景 【絵:後藤 泱子】
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たこ足はその名の通り、長方形の箱の底に播種孔がつき、そこから16本の管がのびる。箱底の仕切板の開閉で、一度に16株、各20粒ほどの種子を播くことができる。
後にこの播種器を鑑定した北海道農試の報告によると「製作仕上入念にして堅牢」とある。黒田は腕ききの職人だったのだろう。
たこ足が発明される以前の北海道には、内地から水苗代が伝わっていた。だが低温下で苗腐病が出やすく、栽培が安定しない。苗代播種も4月末からの1週間ほどで終える必要があり、
適期を逸しやすい。そこで考えられたのが、湛水直播だった。直播の播種適期は5月中下旬の2週間と長く、移植でみられる生育停滞もない。にもかかわらず、
なかなか農家に普及しなかった。除草や倒伏を考えると点播がよいのだが、広い水田では手作業が大変で、農家が尻ごみしたからである。
たこ足は、この悩みを解決した画期的な農具だった。なにしろ1時間に5アールも、立ったまま播種できる。手播きの10分の1、田植えに比べても7分の1の労力ですんだ。
農家が飛びついたのは、もちろんである。以後、直播は急進し、類似の播種器がつぎつぎ各地で製作されるようになった。大正時代には22機種もが出回っていたという。
もっとも、たこ足直播の普及には、明治28年に新琴似村(現札幌市)の江頭庄三郎(えがしらしょうさぶろう)が育成した品種「坊主(ぼうず)」が深いかかわりをもつ。
芒(のぎ)のないこの品種を用いることで、播種がさらに楽になったからである。
たこと坊主。この奇妙な名前をもつ技術のコンビによって、北海道の農家は広い水田の稲つくりに自信をもてるようになった。大正から昭和にかけて、北海道で急速に稲作が広まったのは、
たこ足のおかげといって過言でないだろう。
だが、そのたこ足直播も、昭和6〜10年の冷害を契機に、衰退の一途をたどる。冷害に強い冷・温床苗代が奨励され、移植栽培に移行したからである。
それにしても、最盛期27万ヘクタールにまで達した北海道稲作の礎石が、このたこ足直播によって築かれたことを記録に留めておきたいものである。
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