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わが国施設園芸のさきがけ

〜 福羽逸人がはじめた促成栽培 〜


 イチゴ狩りのシーズンである。こんな時期に真っ赤に熟したイチゴが食べられるなんて。施設栽培が普及したおかげだろう。そこで施設栽培の創始者福羽逸人(ふくば はやと)の足跡をたどってみた。

イラスト

新宿御苑の大温室。福羽の時代にも
このあたりにフレームと温室があったらしい
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 福羽を語るには、新宿御苑からはじめねばなるまい。今では公園として国民に広く親しまれている御苑だが、戦前は宮内省の新宿植物御苑であり、明治初期には農商務省の内藤新宿試験場だった。

 福羽は明治10年、内藤新宿試験場の実習生となり、伝来して日も浅い洋式園芸を習得する。11年からは農商務省に勤務、19〜22年の間はフランス・ドイツなどに留学。 23年に宮内省技師に任ぜられ、以後は御苑で生涯の大部分を過ごした。

 御苑で福羽がまず情熱を傾けたのが、イチゴ・ナス・キュウリなどの促成栽培だった。促成栽培の名づけ親は彼自身であるという。

 もちろん、わが国にも野菜の早づくりがなかったわけではない。だが当時は塵芥(じんかい)が醸熱源で、油紙障子を被せても、保温に難があった。福羽はフランスでの知見を生かし、 上部がガラス障子の片屋根式本枠フレームを考案。熱源としては馬糞(ばふん)・きゅう肥・落葉などを踏み込むようにした。この方法だと、24度近くの温度を5〜7週間確保することができる。 明治23年にはすでに、良質の早出し野菜を安定生産することに成功している。

 促成栽培は御苑で開発されたが、福羽はこれを積極的に農家に広めている。明治30年代後半には愛知県清洲・静岡県久能地方に導入され、やがて全国に普及していった。 ガラス障子が姿を消したのは、戦後ビニールが登場するようになってからである。

 促成栽培を完成した福羽が、つぎにこれに向く品種づくりに取り組んだのは当然の帰結だろう。育成されたイチゴ品種「福羽」については、前シリーズ〈石垣イチゴ〉で述べた。 明治32年に育成、苑内で栽培されていたが、昭和のはじめから静岡県を中心に栽培されるようになった。福羽イチゴは大粒で肉質もよく、低温下でも結実する。育種母本としてもすぐれ、 今日の主要品種「女峰」「とよのか」にも、その血は受け継がれている。

 福羽は温室栽培の先駆者でもある。明治26年、御苑に本格的な加湿温室が建設されると、これを利用してメロンやラン・熱帯果樹などの栽培にも力を注いだ。ランの珍種を多数輸入し、 品種改良も試みている。ブドウの温室栽培を最初手がけたのも福羽だった。

 先日、久しぶりに新宿御苑を訪ねてみた。大木戸門を入るとすぐ右手に、大温室が建っている。福羽の時代にも、この辺りにフレームや温室があったらしい。今日の御苑のただずまいは、 内苑局長だった福羽の主唱で、明治39年に整備されたものである。巨木となったヒマラヤシーダーの並木は、この時福羽が自ら苗を育て、移植したものという。

 わが国の施設園芸は現在5万3千ヘクタール。世界有数の栽培面積を誇る。低迷する農業の中で独(ひと)り健闘する施設栽培を、地下の福羽はどんな思いで見守っていることだろうか。
「農業共済新聞」 2000/04/12より転載  (西尾 敏彦)


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