ホーム読み物コーナー >  続・日本の「農」を拓いた先人たち > 台湾政府から毎年感謝米1,200キロ

台湾政府から毎年感謝米1,200キロ

〜 「蓬莱米」の父・磯永吉 〜


 蓬莱山(ほうらいさん)は中国の伝説に出てくる霊山である。東海に浮かぶこの島では神仙が遊び、生きものすべてが不老不死であるという。正月にちなみ、おめでたい蓬莱の名を冠した 「蓬莱米(ほうらいまい)」の話からはじめてみよう。

イラスト

台湾の稲作は今では9割までジャポニカ稲に替わっている
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 蓬莱米とは、蓬莱島と異名をもつ台湾の米のことである。元来、台湾の米は長粒のインディカ系だったが、これはジャポニカ米。日本統治時代に在来稲×日本稲、 または日本稲同士の交配によって品種改良された米である。粒形、食味などほとんど日本米に変わらないため、戦前の最盛期には75万トンにも及ぶ新米が内地に送り込まれたという。

 蓬莱米は、大正から昭和にかけて、当時台湾総督府農事試験場で活躍していた磯永吉(いそ えいきち)らによって育成された。彼が農事試験場に赴任したのは明治44年。 47年に及ぶ彼と台湾農業とのつき合いは、この時からはじまった。

 磯が最初に取り組んだのは、1,200に及ぶ台湾在来種の特性調査だった。この時、日の目を見た「低脚烏尖(デージェウジェン)」「台中在来(だいちゅうざいらい)一号」などは、 その後交配親として、台湾を含む世界の多収品種の育成に貢献している。

 在来稲はしかし、一般に低収で品質が劣るため安値でしか売れない。といって、内地品種を持ち込んでも出穂が早過ぎ、栽培できなかった。そこで多収良質な日本稲の血を入れた台湾米づくりに全力を注ぐことになった。

 磯らの研究は日本稲と在来稲の栽培上の違いを知ることからスタートした。研究の結果、日本稲では在来種の慣行苗より極端に若い苗の移植が望ましいことが明らかになった。 ジャポニカ稲栽培の突破口が拓(ひら)けたのである。

 ジャポニカ×インディカの交配は当時至難と思われていた。だが、ぼう大な数の交配を繰り返すことによって、この困難は克服され、「嘉南2号」などの優良品種が育成された。 並行して行われた日本稲同士の組み合わせからは「台中65号」などの優良品種が育成されている。彼らが育成した品種は総計260にも達したという。

 大正11年、総督府は蓬莱米の普及に踏み切った。蓬莱米は収量で2割、農家収益では30%のアップにつながる。蓬莱米普及前の大正10年の台湾米生産量は75万トンだったが、 普及後の昭和13年には147万トンに達している。特筆すべきは単収が150キロから230キロに急増したことである。有名な緑の革命の40年前の出来事だが、 磯らの活動こそもう一つの緑の革命といってよいだろう。

 昭和20年に日本は敗戦。だが磯は長年の功労を評価され、請われて台湾に残留した。さらに10余年の台湾農業への貢献を終え、彼が帰国したのは昭和32年。帰国に際し、 台湾の政府は毎年1,200キロの蓬莱米を終生彼に贈ることを約束し、深謝の意を表明した。食糧管理法の関係で米は換金されて磯に贈与されたらしいが、心温まる逸話である。

 「私の一生は米作りに捧げたのだから、米寿までは長生きする」と語っていた磯だが、昭和47年に85歳で亡くなった。戦争が近隣諸国に多大の迷惑をかけた中で、 磯の生涯はほのかな安らぎを私たちに与えてくれる。
「農業共済新聞」 2001/01/17より転載  (西尾 敏彦)


← 目次   ← 前の話   次の話 →