平村郷土館前に立つ鉢蝋清香の顕彰碑と同村風景 【絵:後藤 泱子】
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新潟県農業総合研究所(長岡市)の正面脇に、木立(こだち)に囲まれ胸像が建っている。前号で述べた水稲農林1号育ての親、並河成資(なみかわ しげすけ)の顕彰碑である。
台座には農林1号などの農作物種子が貯蔵され、「開封2951年・同11951年。指定の年次までの保存を乞う」とある。千年万年とは途方もない未来だが、当時の研究者の心意気がしのばれ、愉快である。
胸像の建立は昭和26年。全国から寄せられた浄財の一部があてられた。除幕式には並河の遺族のほか、農林1号育成の関係者・農民代表など約300人が出席している。
実はこの式には、もう1組の遺族が招待されていた。新潟農試鉢蝋清香(はちろう せいか)技手の2人の遺児である。「並河のみでなく鉢蝋さんのご苦心もなみなみならないものがあります。
こんどの顕彰で並河一人がそれを受けることは私の立場が許しません」という並河夫人の訴えで、急遽(きゅうきょ)実現したものだった。
いうまでもないことだが、品種改良には多くの人びとの協力が不可欠である。農林1号の場合は、並河のほかにも交配を受けもった農事試験場陸羽支場(秋田県大曲市)稲塚権次郎(いなつか ごんじろう)技師と、
ここで紹介する鉢蝋の功績がとくに大きかった。ちなみに稲塚は後に小麦農林10号を育成した世界的に著名な育種家だが、鉢蝋と同じ富山県農学校(現福野高校)の卒業生で、8年先輩に当たる。
農林1号の育成では、鉢蝋は多忙な並河を助け、圃場管理や選抜の実務に当たった。農林1号を世に出した昭和6年の育成試験成績書でも並河と鉢蝋が連名になっている。
これだけでも鉢蝋の貢献の大きさがよくわかる。鉢蝋の献身なくして、農林1号の誕生はなかったと証言する人は多い。
だがその鉢蝋も戦後並河が顕彰され、国中の賞賛が農林1号育成者に寄せられた時には、この世に亡かった。農林1号の育成後、島根農試に栄転したが病のため退職、
昭和17年郷里の富山県平(たいら)村で亡くなっている。享年41。農林1号育成の辛苦が彼の健康をさいなみ、死期を早めたのだろう。おかげで彼の人柄を伝える資料は少ない。
生前書き残した文を読んでみたが、まじめさだけが印象に残った。写真をみると貴公子の風貌(ふうぼう)である。静かで控えめの人だったような気がする。
3月初旬に平村を訪ねてみた。平家の落人伝説もあるこの山峡(やまあい)の村は、まだ2メートルの深雪に埋もれていた。鉢蝋はここで療養生活を送り、気分がよいと油絵を描いていたという。
日本中が戦争一色に染まっていた時代だ。例え郷里でも、病人には過ごしにくかったろう。
平村郷土館の前に鉢蝋を顕彰する農夫立像が建っていた。館内には遺品や農林1号の資料が展示されている。平成3年には彼を偲(しの)ぶ特別展が3週間も催されたという。
やがて起こる賞賛の声も聞くことなくひとり逝った鉢蝋だが、故郷は今も最高の敬意を彼に払っている。
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