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微粒子病が育てた養蚕技術

〜 佐々木長淳・忠次郎の親子リレー 〜


イラスト

佐々木忠治郎の書になる「大森貝塚」の碑
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 JR東海道線大森駅から徒歩5分の線路脇に、我が国考古学発祥の地「大森貝塚」がある。明治10年、東京大学に招かれ来日したモースが、車窓でこの遺跡を発見した話は有名だが、 同じ遺跡が農業の先人にもゆかりの深いことを知る人は少ないだろう。モースを助け、発掘に当たった理学部学生佐々木忠次郎(ささき ちゅうじろう)こそ、我が国養蚕学の開祖なのである。

 忠次郎を語るには、まず父長淳(ちょうじゅん)を語らねばならない。長淳は我が国に西欧の進んだ養蚕技術を紹介した最初の人である。明治6年ウィーン万博に派遣された彼は、 帰途各国を回り、養蚕の最新技術を習得した。

 折しもヨーロッパでは微粒子病が蔓延(まんえん)、養蚕は壊滅状態にあった。蚕種・生糸の輸出を求められた明治政府が、養蚕振興に力を入れたのは当然であろう。 長淳の訪欧はこうした政府の意図によるものだった。

 微粒子病はしかし、有名なフランスのパスツールによって、まもなく病因が解明される。病蚕の体内に生じる微粒子が病原体(後に原虫の胞子と判明)で、これが体内で増殖、 経卵伝染することを突きとめたのである。

 パスツールは母蛾を個体別に袋に入れて産卵させ、産卵後の母蛾を顕微鏡で検定、体内に微粒子をもつ病蛾の卵を袋ごと除く方法を開発する。「袋採り採種法」である。 長淳はこの最新技術を学び帰国した。

 帰国後、長淳は創設間もない勧業寮内藤新宿試験場の養蚕掛長となり、蚕病研究に従事する。当時はまだ品種改良は未発達で、病虫防除こそが緊要の技術課題であった。 長淳の研究によって、我が国にも微粒子病が存在することが明らかなり、その蔓延を未然に防ぐことができた。長淳が改良し、袋の代わりに区枠を用いた「枠製採種法」は今もほぼそのままの形で活用されている。

 長淳の志は忠次郎に引き継がれた。卒業後、養蚕学に進んだ忠次郎は、やがて東京大学養蚕学教室の初代教授に就任、我が国養蚕研究をリードする。 微粒子病については母蛾の検定だけでは不十分であるとし、肉眼による病蚕鑑定法を確立した。彼はまた蚕の寄生バエきょう蛆(そ)(カイコノウジバエ)の生活史を明らかにし、 防除の道を拓いている。

 モースの影響を受けた忠次郎は、養蚕以外にも昆虫学・水産学など広い分野で活躍している。今日果樹栽培で広く普及している「袋かけ」は、明治21年ころ忠次郎が創始したと伝えられる。 蚊取り線香などに使われる除虫菊は、明治19年に彼がアメリカから導入して広めたという。ちなみに国蝶オオムラサキの学名ササキア・カロンダは、昆虫学に貢献した忠次郎に捧げられたものである。

 雨の一日、大森貝塚を訪ねてみた。ここだけが喧燥(けんそう)から置き忘れられたビルの谷間に、苔(こけ)むした石碑が建っていた。碑面に「我国最初之発見/大森貝墟/理学博士佐々木忠次郎書」とあった。 堂々たる筆跡である。
「農業共済新聞」 1999/07/07より転載  (西尾 敏彦)


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