昨年の9月13日<サツマイモ「紅赤」発見100年を祝う集い>という風変わりな催しがあった。主催は「川越いも友の会」、場所は浦和市の廓信寺。廓信寺には川越イモの名を高めた
「紅赤(べにあか)」育ての親、山田いちの墓がある。当日は30人余りが集まり、墓参後、「紅赤発祥の地」の碑板を門前に建て、いちの遺業を称(たた)えたという。
我が国でサツマイモが広く栽培されるようになったのは、江戸中期からである。甘藷(かんしょ)先生青木昆陽の話は有名だが、彼が広めたのは「八房(はちふさ)」という在来種だった。
明治31年、その八房から枝変わり(芽条突然変異)がみつかる。後に紅赤につながるこの発見は、埼玉県木崎村(現浦和市)の主婦山田いち、当時35歳によるものである。
「金時」とも呼ばれ、鮮紅色の表皮と まっ黄な肉質がめだつサツマイモ「紅赤」 【絵:後藤 泱子】
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いちは4男4女の子持ちだが、夫が畳職で外出がちなため、一人で50アールほどの畑仕事をこなしていた。もともと凝り性で、研究熱心な彼女は、種イモ選びにも細心の注意を払ったらしい。
たまたまイモ掘り中に、鮮紅色のイモ7個を発見する。さっそく試食してみると、肉色はまっ黄で、ほくほくしておいしい。翌年試作し、秋に市場に持ち込んだところ大好評で、驚くほど高く売れたという。
噂はたちまち広まり、苗の分譲を求める農家が続出した。いちは快く応じたようだが、農地が狭く、注文に応じきれない。そこで種苗生産は近所に住む甥(おい)の吉岡三喜蔵(みきぞう)に受け継がれた。
「紅赤」の名は、この時三喜蔵がつけたといわれる。彼の努力によって、紅赤は関東一円に広がり、昭和10年ころには3万ヘクタールに達した。埼玉県では7割が紅赤になったらしい。
このころ東京に多かった焼きいも屋では川越産紅赤が大人気で、「金時(きんとき)」の名で売れ行きをのばした。
昭和6年、いちは農業功労者に贈られる「富民賞」を受賞する。周囲の称賛に「(私など)ほんのみつけたというだけでございます」と答えたという。だが品種改良はみつけることである。
交配でもバイテクでも、その後の周到な観察なしに優良品種は生まれてこない。
平成10年現在、我が国のサツマイモ栽培面積は4万6千ヘクタールだが、紅赤は今も4%のシェアを占める。この無類の長命品種を探り当てたのは、生産者でしかも主婦でもあったいちの並外れた<みつける>能力に他ならない。
とはいえ、農業技術の創造に女性がかかわった事例は意外に少ない。実際には女性が創った技術も多いのだろうが、男社会の我が国では表に出にくい。いちの場合は、
夫啓次郎をはじめ周囲の協カがあったのだろう。
北浦和駅に近い中仙道沿いに、山田家はある。イモ畑はすっかり住宅に変わったが、イモ室(むろ)だけが今も残っていた。当主の精一さんは、いちの曽孫(ひまご)。
「室の中で作業をしていると、ご先祖様が汗をかきながら仕事をしていた姿が思い出されます」と語ってくれた。
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