昭和6年のこと。この年も農林省に全国の試験場から担当官が参集し、稲作の成績検討会が開催されていた。その昼休みに、当時の農事試験場長・安藤広太郎(あんどうこうたろう)
と同農芸化学部長・塩入松三郎(しおいりまつさぶろう)の間で、「なぜ稲作では、基肥硫安(りゅうあん)の効きが悪いのか」が話題になった。
たしかに各地の試験場の成績をみても、水稲の基肥硫安(硫酸アンモニア)の吸収率はきわめて低い。麦では50〜60%が吸収されるのに、30〜40%に過ぎない。
当時の農家にとって硫安はかなり高い買い物だというのに、それが効かないとあっては大変である。若いころから土壌調査で足繁く農村を廻(まわ)っていた塩入にとって、
これは見過ごせない大事だった。後に「全層施肥(ぜんそうせひ)」の提唱につながる塩入の研究は、ここからはじまった。
昭和20年代の代かき風景。 全層施肥はこの時代さかんに奨励された 【絵:後藤 泱子】
(※絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
|
謎解きのヒントは意外なところにあった。当時、水田土壌を分析する際には、均一な試料を得ようと、表土を撹拌(かくはん)することが多かった。しかしこの方法だと、
窒素(ちっそ)の値が低めに出てしまう。撹拌によって土壌が空気に触れ、窒素が消失するためだが、この実験ミスが後の大発見につながった。
鍵(かぎ)はもう一つ。湛水(たんすい)された水田の作土は2層に分化している。表層は酸素を含む薄い酸化層だが、その下層は酸素が欠乏状況になっている還元層である。
施肥されたアンモニア態窒素は、この2層を通過する過程で、化学変化を起こすことが考えられた。
塩入が到達した謎解きの解はこうだった。硫安のアンモニアは、酸化層で酸素と結合して硝酸態に変わり、還元層に浸透していく。還元層に達した硝酸は、ここで還元され、
窒素ガスに変わり、空気中に散逸してしまうのである。アンモニア肥料の効きの悪いのはこのせいで、塩入はこの現象を「脱窒現象(だつちつげんしょう)」と名づけ、
昭和16年に発表した。
脱窒現象を発見した塩入は、その回避策として全層施肥法を提唱する。当時、施肥は代かき後に行われていたが、これだと窒素は表層にしか到達しない。全層施肥では、施肥後、
作土全層に混ざるようよく耕うんして、早めに灌水(かんすい)する。ちょうど戦争中で物資不足の最中である。この方法の普及は、窒素の無駄を減らし、農家の冗費(じょうひ)節減の助けになった。
もっとも、全層施肥が広く普及したのは、塩入がすでに東京大学教授になっていた戦後のことだろう。全層施肥理論は深層施肥の普及につながり、現在は田植機装着の側条施肥機に活(い)かされている。
肥効の改善だけでなく、後効きが増産にもつながったからだろう。
水田における物質変化に、酸化・還元層が深く関係するという塩入の発見は、以後、彼の「老朽化水田」「高位収穫水田」の解明にも活かされていく。戦後の食糧難克服に、
彼のこれらの研究が大きく貢献したことは特筆されるべきだろう。
「土を見ると、実証主義になる」と、塩入は述べている。脱窒現象という基礎から、全層施肥という応用まで。塩入の大成になる「水田土壌学」は、
まさしく日本農業が生み出した独創の科学であった。
昭和37年、塩入は72歳で亡くなった。この年の新春、皇居に招かれて「土壌の分類について」御進講申し上げたばかりだったというのに、痛恨のきわみである。
|