【絵:後藤 泱子】
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このところ、つぎつぎに新しい水稲品種が世に出ている。だがそのルーツをたどってみると、意外にも、すでに本欄で取り上げた「旭」
「亀ノ尾」など5〜6品種に行き着いてしまうという。
ちょうど競馬のサラブレッドのルーツをたどると、わずか3頭の牡馬に行き着くという話によく似ている。すぐれた品種をつくろうとしのぎを削っていくと、結局こういうことになるのだろうか。
ところで、この限られた5〜6品種の中でも、とくに近年の稲の多収化に貢献しているのが「神力」である。「神力」は明治10年(1877)、
兵庫県御津町の農家丸尾重次郎、当時63歳によって発見された。自らの田で栽培していた水稲「程良」の中に3本の芒のない穂を見出したのが、
この品種のはじまりだったという。
丸尾はもともと稲作改善に熱心で、よく各地の品種を取り寄せ、研究を重ねていたという。そんな彼がこの変わり稲を見逃すはずはなかった。さっそく採種して試作したところ、従来の稲に比べて25%も増収したという。
彼は最初この品種を「器量良」と名づけたが、この望外の多収は神のお力添えに違いないと考え、のちに「神力」と改名したという。
「神力」は晩生種、短稈で株張りのよい品種だった。当時の稲としては極端に穂数型であり、ずば抜けて多収であった。ちょうど魚肥や豆粕が出回りだした時代である。耐肥性にすぐれた神力はこの時代を追い風に、
増収の決めてとして広く農家に受け入れられていった。
「神力」の驚異的な普及の陰に、岩村善六の力があったことも忘れることはできない。岩村は余部村(現在の姫路市)の人。
神力の多収性にいち早く着目し、全国に紹介した。彼はまた、「神力」の優良種子を増殖するため、農家に呼びかけて採種組合を組織している。まだ公営の採種組織がなかった時代に、原種・原原種体制をつくりあげた彼の功績は大きい。
当時の稲作で純度の高い種子が増収にむすびついたことは、まちがいないからだ。おかげで明治末から大正にかけて、種子注文が殺到し、近村一帯が採種圃と化したという。
「神力」は明治末から大正期にかけて、西日本一帯を席巻し、最盛期の大正8年(1919)には58万ヘクタール、全国水稲面積の20%で栽培された。昭和になると「旭」にその座をあけわたすが、
およそ半世紀にわたり我が国の稲作に君臨していたことになる。
「神力」はしかし、ここで使命を終えたわけではない。以後、多収品種育成に大きく貢献し、とくに東海以西の品種には今も、その多収の血が脈々と受け継がれている。
丸尾は明治22年(1889)、75歳で亡くなった。「神力」が脚光を浴びたのは、明治20年代になってからだから、その隆盛をみることなく、世を去ったことになる。
5月の末に、御津町を訪ねてみた。地元の酒造業本田真一郎さんの案内で、丸尾が「神力」を発見したという田んぼなどをみせてもらった。生誕地の中島集落には「神力翁丸尾重次郎生誕の地」の高札が誇らしげにたっていた。
本田さんはこの土地に「神力」を復活して銘酒をつくっている。ホームページで田植え参加を呼びかけると、毎年100人以上の人が集まってくると話してくれた。今年の田植えは6月27日とか。
「神力」は今も、日本人に深く愛されているのだろう。
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