ホーム読み物コーナー >  続々・日本の「農」を拓いた先人たち > ストックの品種改良に賭けた農民育種家黒川浩の50年

ストックの品種改良に賭けた農民育種家
黒川浩(くろかわひろし)の50年


イラスト

【絵:後藤 泱子】

絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
「高校時代に読んだ篠遠喜人(しのとうよしと)著の『メンデル』がきっかけでした」房総半島南端の館山(たてやま)市でストックの品種改良に打ち込む黒川浩(くろかわひろし)は、 育種家を志した動機について、こう話してくれた。  
 
 我が国のストック栽培面積は約280ヘクタール。切り花の数で7700万本が生産される。そこで栽培される品種の6割、供給される種子の80%以上が、黒川の手になるという。我が国のストック農業は彼なしに語ることができないといっても、過言でないだろう。  
 
 黒川は昭和25年(1950)、高校卒業とともに農業を継いだ。南総は土地がせまく傾斜地ばかりだが、冬暖かく花栽培には適している。彼はしかし、単なる花栽培には飽きたらず、当時普及しはじめたばかりのストックの品種改良に挑戦していった。  
 
 ストックはアブラナ科の自家受粉植物。交配は蕾の硬いうちに花弁をピンセットで裂き、別の花粉をつける。すべてが試行錯誤のくり返しだったが、「生まれつき好奇心が強かった」と自称する彼には苦にならなかった。  
 
 地中海原産のストックは、雨の多い日本の露地栽培には適さない。それでも彼は油障子のフレームで育苗するなど工夫を重ね、研究を進めていった。0.6アールほどの畑からの出発だったが、やがて規模を拡大、 本格的な品種改良に取り組めるようになった。  
 
 ストックの品種改良では、茎が硬くて作りやすく、切り花にしても花もちのよいことが要求される。この条件を満たし、最初に世に送り出した品種が「黒川早生」だった。育種をはじめて6年後、1956年のことである。  
 
 昭和30年代の後半(1960年以降)になるとビニールが出まわり、ハウス栽培が普及しはじめる。黒川はここで、ハウス用の年内咲き極早生品種の育成に成功する。もともとストックは早春咲き。 極早生品種の誕生はストックの需要増に大きく貢献した。以後、「秋の紅」など、秋シリーズと称する極早生品種をつぎつぎに世に送り出した。  
 
 桜が好きな日本人はチェリー系の色調を好む。昭和50年(1975)に彼が育成した「黒川チェリー」は過去にないパステルカラーが受け、爆発的な人気を呼んだ。この花色は後継品種に受け継がれ、 今日も需要が定着している。  
 
 小輪で花数の多いスプレー・タイプが人気を呼ぶようになったのは、平成に入って1990年代後半からだろう。「ホワイトカルテット」「チェリーカルテット」など、カルテットシリーズと名づけた品種が人気を浚うようになったのは、 この時期からだった。  
 
 黒川が今日までに育成した品種は65、うち35が登録品種に認定されている。だがこれほど多数の品種を育成しても、それだけでは食っていけない。そこで種子の生産販売に踏み切った。種子生産では発芽がよく、 品質の揃った種子がつねに要求される。この47年、彼はその重責を果たしてきた。  
 
 一般にストックの種子からは一重咲きと八重咲きがほぼ半数づつ出現する。だが消費者が好むのは八重咲きの方だけ。黒川はここでも種子色などを指標に八重咲き率を高める技術を開発した。  
 
 街角で〈自分の花〉に逢ったときのよろこびは言い尽くせないと、黒川は語る。農業に創造のよろこびを見出した男の実感だろう。農業は〈知的活動の場〉というが、彼はまさにそれを地でいっている。 その背中をみて育ったからだろう。ご長男も立派な育種家に成長し、今では二人で我が国のストック農業を背負って立っている。  
 
続日本の「農」を拓いた先人たち(54)ストック農業の立役者、品種改良に賭けた黒川浩の50年 『農業共済新聞』2004年1月2週号(2004).より転載  (西尾 敏彦)


← 目次   ← 前の話   次の話 →