【絵:後藤 泱子】
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八十八夜が過ぎて、日本中の茶園が緑に輝く季節である。先日も静岡県の大井川沿いを旅したが、山肌を埋め尽くした茶園にカマボコ形の畦が連なり、緑の波をみるここちがした。今回は、
この緑の情景をつくりあげた陰の功労者「挿し木繁殖法」を話題にしてみよう。
わが国の茶づくりは、ほんのこの間まで実生栽培で、手摘みが普通だった。実生樹は遺伝的に雑ぱくだが、手摘みなら多少の生育不揃い、畦曲がりは気にならない。だが近年のように機械化が進み、
品種が統一されると、整然と揃った畦が必要になった。それを可能にしたのが、挿し木繁殖法の実用化であった。
茶の挿し木繁殖法は、昭和11年(1936)、当時奈良県農業試験場茶業分場(現在の農業総合センター・茶業振興センター)にいた押田幹太によって開発された。
じつは1000年を超える茶栽培の歴史で、それまで挿し木による大量増殖に成功した人はいなかった。
押田が挿し木研究をはじめたのは、品種改良に役立てようと思ったからであった。ちょうど国の品種改良事業がはじまった直後のことである。だが、どんな優良品種をつくっても、大量増殖ができなければ、
意味がない。そこで彼は、それまでだれも成功しなかった挿し木法の実用化に挑戦していった。
茶の挿し木は発根するまでに3か月、それがりっぱな苗木に育つまでには、さらに1〜2年を要する。押田はこの2段階を分けて解析し、とくに重要な発根に着目、その最適用件について試験を重ねていった。
5年におよぶ試行錯誤の末に、彼が得た結論はこうだった。まず、挿し木に用いる枝は新芽を摘み取らず、そのまま成熟させる。挿し穂はその新梢が半ば木質化する6月ころに、茎に葉を2〜3枚つけて切り分ける。
できた挿し穂は排水のよい、有機物を含まない床土に挿す。苗圃はしばらく遮光し、潅水を絶やさないようにする。今聞けば、なんでもないことだが、ここに至るまでには、数知れぬ試験の積み重ねがあった。
学生時代からラグビーの選手として鍛えた彼の馬力が、それを可能にしたのだろう。
挿し木繁殖法の開発によって、実生樹が主体だった茶園は、「やぶきた」などの育成品種に換わっていった。とくに更新が進んだのは、昭和30年代後半からである。この時期になると、
摘採機がつぎつぎ開発された。いっぽうで、茶の国内需要が増し、国や県の原種農場で優良品種の挿し木苗が大量に養成されたことも、茶園の新・改植を後押しした。
平成18年(2003)現在、わが国の茶園面積は4万8500ヘクタール。うち4万7100ヘクタール、97%を専用茶園が占める。そのすべてが押田が開発した「挿し木繁殖法」のお世話になったとみてよいだろう。
押田はその後、宇都宮高等農林学校教授・島根農科大学教授を歴任。いつも学生との対話を楽しむ、気さくな先生だったという。晩年は松江に落ち着いたが、昭和43年(1968)、66歳で亡くなった。
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