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虫の精子金庫

 ヒトを含む脊椎動物の場合は、交尾の直後に受精も起こる。しかし、昆虫の場合は交尾して放出された精子が、メスの輸卵管に付属している袋(貯精嚢)の中に一旦保管される。そして産卵にさいして卵がここを通過する時に初めて受精されるので、交尾と受精との間にはタイムラグがあり、種類によっては、一度ため込んだ精子を、何年にもわたって小出しに用いるものもある。もっとも、交尾を済ませたオスにとっては、精子を“金庫”に預けたようなもので、メスに格別の事故がない限り、自分の遺伝子の継承(『血縁淘汰説』参照)に関しては一安心である。

カワトンボ
「日本昆虫図鑑」北隆館,1932

 ところが十数年前に、こうした常識を覆す驚くべき事例がアメリカで報告された。カワトンボが交尾した時、貯精嚢に別のオスの精子があると、新たなオスがこれを掻き出して自分の精子と“強換”するというのである。また、前のオスの精子を貯精嚢の奥に押し込み、早く使われる手前の精子を自分のもので満たすカワトンボがあることもわかった。

 ほかの昆虫と同様に、トンボの交尾器もしっぽ(腹部)の先にある。しかし、オスはこの部分にある特種な鈎(かぎ)でメスの首をはさみ、いわゆる“尾つながり”の状態で交尾するので、自分の生殖器は使えない。このためオスはしっぽの付け根にもうひとつの副交尾器を持ち、ここにあらかじめ尾端の精子を移しておく。そして、首をつかまれたメスがしっぽを曲げて、輪のような形でこれと交尾する。こうした交尾法自体が昆虫の中でもきわめて特異だが、加えてオスが副交尾器に専用の銛状または棒状の道具まで備え、先住の精子を掻き出したり押し込めたりする事実は世界中の生物学者をびっくりさせた。なんと貯精嚢はとんだ破れ金庫だった訳である。

 その後こうした“精子置換”の習性は、ほかの昆虫でも発見されている。とくに近年都会で急増して話題になっているアオマツムシの場合は、オスが掻き出した他人の精子を食べてしまうという念の入れ方である。

 昆虫類の4億年の進化と適応のナゾはまだわからないことだらけである。ひるがえってヒトのペニスに節状の段があるのも、先住の精子を掻き出すのが本来の用途と、まじめに考えている学者もある。ぼくには飛躍のし過ぎに思えるが……。

[研究ジャーナル,17巻・5号(1994)]



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