―ある害虫防除の断面―
プロローグ
日本は、諸外国から農作物の害虫が侵入するのを未然に防ぐため、植物検疫の制度を強化し、外国と交流のある全国100か所に及ぶ港や空港で、約600人の植物防疫官が、 激増する輸入植物の検査に日夜追われている。また、外国のとくに重要な病害虫に対しては、その寄主となる植物の輸入を法的に禁止している。 そして、ミカンコミバエもウリミバエも、そうした大害虫のひとつである。 ミカンコミバエは、東南アジアをそのふるさととする各種果実の大害虫である。その寄主は広範に及び、とくに栽培果実でこのハエが寄生できないものは、 青バナナ、パイナップルなど、かぞえるほどしかない。マンゴー、マンゴスチン、パパイヤなど、至近の距離にある東南アジアの名だたる果物が、 日本ではほとんど賞味できないのは、このハエのために輸入が禁止されているからである。 一方のウリミバエもまた、東南アジアにおけるウリ科野菜の大害虫で、キュウリ、メロン、スイカなどがこの地方から輸入できない事情は、ミカンコミバエの場合と同じである。 これらのハエの成虫は、ともに黄色と黒のだんだらもようのある美しい種類で、その生活史も両種はよく似ている。成虫は寄主の果実の中に卵をかためて産みつけ、 ふ化した幼虫が集団で果肉を食い荒らす。成長した幼虫は果実を脱出して、浅く土中にもぐってさなぎになり、やがて成虫が羽化してくる。暑い季節では2週間くらいで生育するので、 熱帯では年間を通じてくりかえし発生し、各種の果実を荒らし回ることになる。 ミカンコミバエは1945年に、ウリミバエはそれよりも古く前世紀末ごろ、ともに海を越えてハワイに侵入定着したことによって、危険な害虫として世界的にその名を高めた。 日本への侵入そして、日本でも、ミカンコミバエが大正中期に沖縄へ、同末期に小笠原諸島に侵入定着を果たし、とくに南西諸島では、半世紀の間に北は種子島まで全域に分布を拡大した。 ウリミバエの方もまた、大正中期ごろ、宮古・八重山群島で侵入が確認されていたが、近年に至り、急速に北上をはじめ、昭和48年(1973)には、ついに奄美大島で発生を見るに至った。戦後、アメリカの手を離れて奄美群島が日本に復帰したのは昭和28年(1953)のことで、続いて同43年(1968)に小笠原諸島が、同47年(1972)に沖縄が念願の復帰を果たした。 そして、それはまた、2種類のミバエ類が改めて日本の害虫リストに名を連ねた日でもあった。ただし、復帰後といえども、その寄主植物を内地へ出荷できない事情は同じで、 このことがこれらの地域の農業振興上の大きな障害になったことはもちろん、その対策は日本の植物防疫上の大きな課題として残されることとなった。 根絶作戦一定の地域から、ある種の害虫を1匹残らず根だやしにする「根絶法」は、かつては技術的に考え及ばないことであった。しかし、近代科学の進歩は、 アメリカ農務省の研究者によって、ミバエ類に適用可能なその画期的な技術を生み出した。西太平洋のマリアナ諸島のロタ島における、「雄除去法」によるミカンコミバエ、 「不妊虫放飼法」によるウリミバエの、それぞれ根絶の成功がそれである(スタイナーら、1965・1967)。ミカンコミバエには、雄成虫を強力に誘引する化学物質メチルオイゲノールが知られている。これに殺虫剤を混入して、テックス板にしみこませ、 定期的に野外にばらまくことによって雄成虫を誘殺し、最終的には雌の交尾の機会をゼロにして根絶に至らせるのが「雄除去法」である。 一方、ウリミバエにも雄成虫の誘引剤キュールアが知られているが、根絶作戦に使えるほど効果は強力ではなく、そこで用いられたのが放射線の平和利用ともいうべき「不妊虫放飼法」である。 この方法はまず、人工飼料でハエを大量に飼育し、さなぎになったときにコバルト60でガンマー線を照射する。こうして羽化した成虫は、交尾はするが受精しない、 いわゆる「不妊」になる。これを大量に野外に放せば、野生の雌は、「不発」の交尾が増え、野生の健全な雄との交尾のチャンスがへり、これを続けることによって、 ついには根絶に至る−−という理論と手法にもとづくものである。 ミカンコミバエの場合昭和43年(1968)の春、当時の農林省で、懸案のミカンコミバエの根絶の可否についての会議が持たれた。アメリカで開発されたばかりのこの技術を、 そのまま日本に持ちこんでも成功する保証は何もなかったが、とにかく「成否を越えて試みるべきだ」との結論に達した。こうして、最初の実験事業の舞台として奄美群島の喜界島が選ばれた。このハエに関する基礎的研究(そのための期間も予算も少なく残念ではあったが……)ののち、 昭和43年9月8日、関係者の見守る中を最初の誘殺テックス板が、ヘリコプターによってこの島に投下された。それはまた、今日に続く日本のミバエ類の壮大な根絶作戦の幕開きでもあった。 「不妊虫放飼法」を含めて、日本におけるミバエ類の根絶事業は、その手法こそ外来技術であるが、実際には独自の技術開発を要する問題が山積みしている。 いくたびも難問題に直面し、そのつど国と県、研究者と行政関係者が一体となってそれを克服しながら推移していった。 どんな昆虫でも、ある地域に1匹もいないことを科学的に証明することはむずかしいが、ミカンコミバエの場合は、多数のモニター・トラップで、 半年以上にわたってハエが1匹も捕らえられないことや、その間、ぼう大な数の果実を調査し、寄生のないことを確かめるなど、リスクを最小限にとどめる「ゼロ確認」の方策がとられた。 こうして、昭和55年(1980)の奄美群島を皮切りに、本年(1986)の八重山群島を最後に、南西諸島全域からのミカンコミバエの根絶が宣言された。 ただ、小笠原諸島の場合は事情が異なり、たび重なる「雄除去法」の試みが成功に至らず、ここでは昭和53年(1978)より、本格的に「不妊虫放飼法」に切りかえられた。 さいわいに、少数のスタッフの献身的な努力によって、ここでも昨年、めでたく根絶が宣言され、ミカンコミバエは日本全土からその姿を消した。また、この間、 小笠原で放された不妊のハエは、のべ13億8千万匹に及び、「ゼロ確認」のために調査された各種の果実だけでも13万果に達した。 ウリミバエの場合ウリミバエの根絶に採用された「不妊虫放飼法」は、ロタ島における成功以来、各国で試みられたが、その後の成功例皆無という、確立された技術ではなかった。 そのため、その実行にともなって、ミカンコミバエにまさるとも劣らない困難性がつきまとった。ウリミバエの根絶実験に選ばれたのは、沖縄本島の西にある久米島であった。国と県の協力による研究チームの技術開発を裏付けとして、石垣島に毎週100万匹のハエを生産する増殖施設が建設され、 また、沖縄に不妊化のための照射施設がぞれぞれ独自の設計でもうけられた。そして、久米島の野生のハエの数と、その季節的変動が理論的に計算された。 まず、その個体数を誘引剤と毒餌を用いて20分の1に引き下げた上で、残った数に見合う不妊虫の放す数と、放飼間隔が定められた。 こうして、昭和50年(1975)の放飼開始から3年半にして、ロタ島以来15年ぶりに、それも再現性のあるすべての記録を残して根絶の成功が発表された。 こう書けばかんたんに見えるが、ハエの大量生産方法、飼育個体群の性的能力の低下などの品質劣化対策、不妊化法と不妊虫の安定供給・輸送システム、 野外のハエの数の推定法と不妊虫の最低放飼量の決定、野外でのハエの行動・死亡率・寿命……などなど、どれをとっても難問につぐ難問であった。 やがてこの事業は、研究陣との密接な連係の下に、南西諸島全域に展開して行く。平成3年(1991)には奄美・沖縄・宮古群島であいついで根絶に成功し、 残る南端の八重山群島も平成5年(1993)についに根絶が宣言された。また、この事業のために新たに沖縄本島に建設された“昆虫工場”は、 かずかずのアイディアが取り入れられ、毎週2億匹の不妊バエの供給を可能にする世界有数の規模を誇る。この事業の完了までに約200億円の国費と、 500億匹以上の不妊バエと、のべ44万人の労力が投入された。 エピローグ根絶の相手は生き物である以上、予算面の手当てがたとえ十分であっても、ロボットの開発とはおのずと別の側面がある。それでも、関係者のこれだけの苦労は、 ウリミバエも成功によって終幕を迎えることを信じたい。また、この事業は、常に研究データをそのつど論文として公表してきたことによっても世界の注目を集めている。 そして、これにたずさわった、とくに若い研究者が世界に通用する科学者に育ち、また育ちつつあることは特筆に価する。沖縄でミカンコミバエの根絶が宣言されてまもなく、それによる内地向け解禁ミカンの出荷第1号が私にも送られてきた。それはまだ、おせじにもりっぱなミカンとはいいかねた。 しかし、喜界島の実験事業以来、さまざまな場面でこの問題にかかわってきた私にとっては、他のどんなミカンよりもそれは美味であった。 さらにひとこと加えれば、実は「根絶法」を適用できる害虫は限られているとはいっても、これは害虫防除の王道ではない。害虫といえども、自然の生態系を構成する重要なメンバーで、 根絶は大きなひずみをあとに残すことになるからである。しかし、ミバエ類の場合は、もともと既存の生態系に割りこんできた外来の侵入者である。 これを根絶しても問題は少ない――と、私は思う。しかしそれも、ある若い研究者がポツリと言った「自然のきまりに反して、不妊虫などというとんでもないものをばらまく権利が人間にあるのだろうか?」という疑問の答えにはならないだろう。
[學鐙 Vol.83 No.12,(1986)]を補筆 |
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