すでに何回か紹介した北京は瑠璃廠の一角に、百軒を超える零細な骨董店が集まっている建物がある。この端渓の硯(すずり)は、
1996年の秋、そこの無人の店で発見したもので、所持金ではとても買えないほどの値札がついていた。ところが隣の店のおかみさんが出てきて、
「ここは店主が店をたたみ、残品の始末を私(彼女)が頼まれている。いくらなら買うか」と聞くので、冗談半分で紳士なら口にすべきではない安値を口にした。
が、何と、早く処分したいのでそれでいいという。
ぼくはこうした蝉型の硯をいくつか持っているが、これは文句なく群を抜いた大物である。体長26cm、重量2.7kgという貫禄もさることながら、
あえて説明不要な造形の見事さと、ふだんは目に触れることのない腹面側(写真)まで克明に彫りあげた職人芸は、ただただ感嘆のほかはない。そして、これほどの作品を、
こんな形で人手に渡された見知らぬ作者の心情を思うと、一掬の涙を禁じ得ない。ぼくがいうのもおかしいが……。
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