島原にじゃがいも王国を築いた宮本健太郎
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5月の島原半島はじゃがいもの花が美しい。美しさの故に、ルイ王朝時代のフランスでは貴婦人に愛(め)でられ、王妃マリー・アントアネットの胸飾りにもなったという。
だがこの美しい花も、育種家の目でみると厄介な花だ。元来、じゃがいもは長日植物で九州では花が咲いても揃いが悪い。花粉ができない、種子が未熟で発芽しないなど。 交配には不都合なことばかりが多い。 こうした悪条件の中で、暖地向け品種の育成に新しい道を切り拓いたのが宮本健太郎技師である。長崎農試愛野試験地(現総合農林試験場愛野馬鈴薯支場)においてであった。 暖地向けじゃがいもの品種改良は昭和19年に、中国農試(当時姫路市)でスタートする。じゃがいもは冷涼気候を好む作物だが、暖地では真夏をさければ年2回収穫できる。 しかし、従来の寒地用の品種では休眠が長く、種いもの萌芽や初期肥大に問題が多かった。休眠期間が短くて、多収な暖地向けの二期作用の品種の育成が、 当時切望されていたのである。 暖地向けじゃがいもの品種改良は、昭和25年から新設されたばかりの愛野試験地に引継がれ、今日に至る。宮本は中国農試時代からこの研究の中心にいて、 20有余年を品種改良に尽くした。 昭和30年に最初の暖地二期作用のじゃがいも品種が育成された。後にウンゼン・タチバナと名付けられた2品種である。宮本は勇躍、中央の新品種審査会にのぞむ。 その時の心境を「もしこれが認められないような場合には、このまま長崎県に帰ることはできない、と心に堅くきめていた」と回顧している。 |
ジャガイモの花と愛野試験地からみた雲仙岳 |
ところが、審査会は難行した。初の本格的秋じゃが品種ということもあって、タチバナがとくに難産だった。慎重論が続出し、宮本は涙まで浮かべ必死に反論したという。
その熱意が通じ、2日目にやっとパスした。一途な人柄だったのだろう。
そのタチバナが昭和46年に秋じゃがでは全国1位、栽培面積の44パーセントを占める。最近は後続品種に席をゆずったが、この品種が秋じゃがの定着化に果たした役割は大きい。 平成5年現在、長崎県のじゃがいも栽培面積は6000ヘクタール、北海道を除けば断トツで、14パーセントを占める。とくに秋じゃがではほぼ半分が長崎県産である。 島原は古くから種いもの産地で、新しい品種に寄せる農家の期待も大きい。創設当時の試験地には、野良に通う農家が祭りや節句のごちそうを届けてくれたという。 宮本らの品種改良の研究も、こうした暖かい風土に培われて育ったのだろう。 昭和43年、試験地構内に地元農家による宮本の顕彰碑が建立された。見上げるようなその大きさに、素朴な農民の感謝の気持ちがみなぎっているように思う。 昭和62年、宮本は76才でなくなった。 |
(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 1995年5月31日より転載
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