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「それでも稚苗は育つ」
−水稲室内育苗の誕生(2)−


〜田植機以前に直植え試み
 稚苗への固執が現代に脈々〜


松田順次と寺尾 博



 「そんな小さい苗が良いなんて、君は種芸を研究する資格がない」長野農試飯山試験地の松田順次技師は寺尾博先生にこう罵倒された。昭和29年ころ、 各県の研究者が集う成績検討会で、はじめて稚苗田植えの研究成果を発表した時のことである。寺尾は元農林省農事試験場長、 昭和初頭から国の種芸(普通作物)研究をリードしてきた大先生である。今では当り前の稚苗田植えも、誕生当時にはこんな手きびしい洗礼を受けたものである。

 昔から苗半作といって、稲作では健苗づくりが基本である。だから苗の研究は多い。そのほとんどが苗代で30〜50日育てた大苗を健苗としてきた。 室内育苗で10日ほどしか経っていない稚苗をじかに田植するなんて非常識な。寺尾だけでなく、学界も試験場も、当時のほとんどの人がそう考えていた。

 松田は一旦引き下がる。しぶしぶ稚苗を苗代に仮植し、大苗化する育苗法を開発する。育苗箱に新聞紙を折り込み、条に仕切った床土の上に種子をまく。 発芽して10日余り、仕切りごとに短冊状に連なる土付稚苗を育苗箱から出し、もう一度苗代に仮植するのである。寺尾にはほめられたが、 松田にとっては気のすすまない研究だったに違いない。

 昭和33年、寺尾の強い推薦もあって、室内育苗は苗代仮植とセットで普及に移された。電熱育苗器が開発された時期でもある。寒冷地はもちろん暖地の早期栽培地帯にも育苗器が配布された。 だが、室内育苗は普及したが、苗代仮植の方は農家に受け入れて貰えなかった。仮植が面倒なこともあるが、稚苗をじかに田植えしても安全でしかも十分な多収が期待できることがわかってきたからである。

苗代で育ったかつての大苗(下左)・室内育苗で育てた稚苗(下右)・上は田植え風景  絵:後藤泱子  ここで活躍したのは、中央から遠く離れた地方の試験場の研究者たちである。農業の現場に近いほど、既成の学説にとらわれることなく、素直に稚苗直植のよさを評価できたのだろう。 まず香川県や大分県の畑地で「苗播き栽培」として奨励された。新潟県や福井県でも豪雪時の対策技術として推奨される。はじめは特殊地帯の限定技術だったが、 やがて東北農試などで直植の安定栽培法が実用化され、少しずつ各地に広まっていった。

 もちろん、稚苗田植が爆発的に全国に普及したのは田植機の開発以後である。それにしても、あらかじめ稚苗直植の可能性が明らかにされていなければ、 稚苗田植機の開発には結びついていかなかっただろう。

 苗代の大苗から室内育苗の稚苗への転換は我が国の稲作の歴史の中で、地動説にも似た衝撃的な出来事だった。ガリレイではないが、 寺尾に叱られた松田は「それでも稚苗は育つ」と叫びたかったろう。

 大苗か小苗か。稚苗を最後に選択したのは農家であった。松田はこのことを信じて直植にこだわり、寺尾もその反省があって後の稚苗田植機開発に力を尽くしたのだろう。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1995年4月19日より転載


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