「農業の文明開化」を先導した田中芳男〜リンゴ普及に技術者魂〜「田中ビワ」の田中芳男 |
もぎたてのリンゴがおいしい季節である。白菜の漬け込みもはじまるころだろう。日本の秋に欠かせないこれら農作物も、今から150年前まではこの国に存在しなかった。
キャベツ・落花生・タマネギなどと同様に、いずれも幕末から明治にかけてこの国に導入された作物だからである。
その導入を手がけた中心人物を田中芳男といった。この時代の導入作物のほとんどが、彼の手でこの国の土に植えられ、全国に広まっていった。 農業の文明開化は、この人が幕開けしたといって過言でないだろう。 田中は現在の長野県飯田市の生まれ。23歳の時に江戸に出て、幕府の蕃書調所に出仕した。今でいえば海外情報センターだろう。ちょうど鎖国が解け、 つぎつぎに農作物が導入された時期である。本草学(現在の博物学)に秀でた彼が、それを引き受けたというわけだ。 彼はまた、慶応3年に「パリ万博」に派遣されて以来、再三海外に出向いている。そこでみた海外の農業を、上野で開かれた「内国勧業博覧会」などを通じて国内の農家に紹介し、 各地の殖産を奨励している。 田中とリンゴのつき合いは慶応元年にはじまる。当時巣鴨の福井藩邸に遣米使節が持ち帰ったリンゴ樹があったが、その枝を貰い受け、在来種に接ぎ木をした。 我が国におけるリンゴ接ぎ木の第1号だろう。ちなみに、在来のリンゴは今日の「和リンゴ」といわれる種で、果実はゴルフボールぐらい。早生で、酸っぱく、 あまりおいしい果物ではなかった。 明治になると、田中は農商務省に出仕。現在の新宿御苑に設けられた試験場で、農作物の導入を続けた。明治8〜9年には米国から苗木を取り寄せ、 増殖した2万本の苗木を東北・長野などに配布している。我が国のリンゴ栽培はここに源を発するのである。 田中は農商務省では農務局長にまで昇進、その後も要職を歴任し、農林水産業の振興に貢献している。だが彼は根っからの技術者だったようだ。 局長時代に青森県に出張した時我が国に侵入したばかりのリンゴワタムシを発見、防除を指示したという話がある。 もっと技術者らしいのは、田中自身がつくったビワの品種が現存することである。明治12年に長崎で食べたビワのおいしさに感心した彼は種子を持ち帰り、 自宅の庭に播いて選抜している。今でも根強い人気を維持している「田中ビワ」がそれで、明治21年からは品種として全国に普及していった。 平成6年現在、田中ビワの栽培面積は第2位、500ヘクタールを占める。育成から一世紀以上も寿命を保っている品種は、他にないだろう。 大正5年に田中は亡くなった。享年77歳。上野の国立科学博物館には、彼の肖像画が掲げられている。国立博物館・動物園の創設にも功績のあった、 彼を称えたものである。 |
(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 1997年11月12日 より転載
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