品種づくり・唄づくりに生涯を捧げた岩槻信治〜笛や太鼓、謡曲はプロ級〜育種の神様・岩槻信治 |
「そっと接吻(くちづけ)あの移り香が/忘れられよか蜂蜜の/甘いなさけをグラスの中に/わたしや見つめておるわいな」随分くだけた歌詞だが、
作者は岩槻三江。昭和8年、愛知県のある養蜂組合のためつくった『蜂蜜小唄』の一節である。三江がつくった盆踊唄・田植唄・小唄・音頭の類は160余。
作詞作曲はもちろん、踊りの振付も彼が手がけた。
ところでこの岩槻三江だが、本名は岩槻信治。大正から昭和の前半、愛知県農事試験場にあって、稲の大物品種をつぎつぎと作り上げ、 <神様>と敬慕された大育種家のまたの名である。品種改良の傍ら、笛・太鼓・三味線をこなし、謡曲はプロ級だったとか。大変洒落な人だったらしい。 岩槻は現在の岡崎市の生まれ。安城農林学校を経て明治39年、当時安城にあった愛知農試に採用された。18歳の時である。以後43年間、 毎日自宅から8キロの道のりをペダルを踏んで試験場に通いつめた。 明治44年、岩槻は当時大阪府にあった農事試験場畿内支場に赴き、人工交配の実地指導を受けた。ちょうど「メンデルの法則」が再発見され、 我が国でも同支場で人工交配がはじめられた直後のことである。ここで得た2週間の経験が、彼の生涯を品種改良に結びつけるきっかけになった。 帰場直後に施設もない所で交配を試演したが、すべて成功したという。天性の育種家だったのだろう。 彼の品種改良の方法は、当時としては<型破り>だったらしい。よい系統が見つかると、育成途上の未固定系統でも構わず、さらに交配を重ねる。 いもち病に強い品種をつくろうと陸稲を交配親に用いてもいる。 だが品種改良はなんといっても実績がものをいう。彼が育成した稲の新品種は30余種。多収だった「愛知旭」「千本旭」「金南風(きんまぜ)」、 いもち病に強い「双葉」、白葉枯病抵抗性の「黄玉」など。今でも記憶している人は多いだろう。 我が国の稲の品種改良で、愛知県のそれは独自の地歩を占める。岩槻が育成した品種はさすがに姿を消したが、彼の後継者たちが育てた「日本晴」「黄金晴」「初星」などの品種は今も全国で広く栽培され、 12パーセントのシェアを占める。その基を築いたのが、他ならぬ岩槻なのである。 昭和23年、岩槻は種芸主任在職中に急逝した。58歳だった。病に倒れても病室に稲を持ち込んで系統選抜を続け、ときどき自作の安城小唄も口ずさんでいたという。 品種づくりと唄づくり。農業・農村をこよなく愛した岩槻にふさわしく、葬儀は「農民葬」で執り行なわれた。彼の功績を称える「岩槻賞」は今も優良農家・技術者を顕彰し、 同県の農業振興に貢献している。幾多の名品種を生んだ試験場の跡、安城農業技術センターには「岩槻記念館」が設けられている。 |
(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 1997年10月8日 より転載
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