農業機械化の1番打者、脱穀機
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この頃、脱穀機をみかけなくなった。一昔前までは、稔りの秋の主役だったものだが。
脱穀機は我が国農業の機械化の一番打者だった。元禄以来200年以上もつづいた千歯を足踏み脱穀機が駆逐したのは、 大正のごく早い時期である。それから動力脱穀機、自動脱穀機と素早い変身を遂げ、今ではコンバインのお腹の中に収まり、 姿を消してしまった。 大宮の生研機構(旧農業機械化研究所)の資料館に、木枠だけの足踏み脱穀機がある。あまり目立たないこの素朴な機械が、 我が国最初の脱穀機で、明治43年山口県の福永章一によって発明された。扱(こ)き胴は今のような逆V字型の扱き歯でなく、 輪にした針金を軸木に取付けてできていた。大正2年からは販売元にちなみ、西谷式と呼称されて広く普及していった。 この足踏み脱穀機に石油発動機を連動させ、動力機としたのは和田又吉である。和田は農業の世界にはじめて原動機を導入した先駆者でもある。 現在の岡山市で水田1.2ヘクタールを耕作していたが、土地柄水がかりが悪く、揚水に発動機を利用することを思いついた。苦労の末、 アメリカ製の小型石油発動機を輸入し、揚水に利用した。この成功がやがて脱穀調製の動力機化につながる。 |
大正のはじめ、足踏み脱穀機(左・福永式)が千歯にとって代わった |
大正9年、和田は最初の動力脱穀機を試作する。従来の足踏み脱穀機よりやや大型の機械に小型発動機を連動させ、さっそく麦の脱穀を試みた。
結果は大成功で、見学者が殺到、仕事の邪魔になったほどだという。
稲麦の束を自動的に脱穀部に送込む自動脱穀機は、大正7年愛知県農試の水野夏一技師によって試作された。脱穀機の下部に唐箕(とうみ)が取付けられ、 脱穀と選別を同時に行えるなど、後の脱穀機の原型がすでにできていた。 もっとも、自動脱穀機のその後の急速な進歩は、大正15年に大日本農会が農林省の支援下に実施した懸賞募集が契機となっている。 応募63点中、6名が入賞した。1等は該当者なし、2等は山口県の農家井川岩太郎の動力選別付脱穀機、3等には前述の水野の自動脱穀機など5点が入賞している。 井川は有名な明治の農業教育者津田仙の学農社に学び、帰郷後村の勧業委員になる。明治30年からは「農業の復興は労力の省略、 即(すなわち)農具の改良を最も急務なりと看取し」職を辞し、脱穀機などの開発に生涯を捧げたという。 福永といい、和田・井川といい、かつての農村には自らも技術創造に取り組む、元気な農家が多かったように思う。 昭和になると、脱穀機の改良は米麦増産政策や戦時下の労力不足に応えるべく急速に進む。国県の研究やメーカーの参加がこれをさらに加速した。 だがそれにしても、大正時代の農村に輩出した一番打者の活躍が、以後の連打を呼び起こすきっかけになったことだけはまちがいないだろう。 |
(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 平成7年9月27日より転載
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