種なしブドウの誕生(2)
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「生涯忘れることのできない日、昭和34年7月17日。即ちジベレリン処理によるデラウェアの種なしぶどう成熟収穫の日である。早熟に驚き調査したところ、
成熟果粒は全部種なし。しめた、と小躍り…」
石和市春日居の笛吹川のほとり。今は県職員保養所が建つ辺りに、山梨農試果樹分場(現果樹試験場)はあった。ここで、はじめて36房の種なしデラが実った時の感激を、 育ての親の故岸光夫分場長はこう語っている。 この年、種なしデラは国の園芸試験場、長野農試、京都農試でも実った。それぞれの試験場の研究者の想いも同じだったろう。 種なしデラほど、短期間に整然と実用に移された技術は少ない。なにしろ本格的な研究がはじまったのは、ほんの2年前の昭和32年である。この年、 全国の試験場が参加した「ジベレリン研究会」が発足、各種農作物を対象にしたジベレリン試験がスタートした。もちろん、ブドウも含まれていた。 ただし、最初から種なしデラをつくろうと思ったわけではない。デラウェアは果粒が密生し、生長の過程で裂果を起こしやすい。ジベレリンで穂軸を長くすれば、 果粒を間引かなくとも裂果が防げる。収量も上がるのでは、と考えての試験だった。 ところが、ひょうたんから駒。昭和33年の山梨農試などの試験で、開花前処理による種なし果が偶然みつかった。しかも熟期が早くなる。そこで、 種なしづくりに方針が変更された。最大の難関は果粒が小さいことだったが、これも翌34年の試験で、開花後にもう一度処理を行なうことで解決できた。 昭和35年、220ヘクタール分の種なしデラが初出荷された。岸らが指導した山梨県産がそのほぼ半分を占めた。大変な人気で、 無処理デラの倍の価格で取引されたという。 種なしデラの定着に生産者の果たした役割は大きい。中でも、この技術をいち早く習得、新商品として消費者に送り届けた第一の功績は、 やはり山梨県のブドウ農家に帰すべきだろう。果樹園芸会がその核で、初出荷以来全国産地に呼びかけ、無計画な生産拡大を抑え、良質な種なしデラを着実に増やす作戦をとったという。 おかげで生産は順調に伸び、今日では全国6700ヘクタールのすべてのデラが種なしに代わっている。 品種と違って、種なしデラづくりにはいつも周到な品質管理が欠かせない。処理適期を正確に把握するためには、農家自身の研究心がつねに求められる。 甲府では若い農家を中心にジベ処理委員会ができていて、気象観測はもちろん、顕微鏡やカメラを使って自ら適期の判定をしているという。毎年、 夜を徹しての大論議になるそうだが。 「若い者の情熱を指導陣に上手に取り入れられた技術革新こそ必要」とは、この改革を直に経験してきた元山梨県果樹園芸会会長今井親輔氏の重みある言葉である。 |
(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 1995年8月30日より転載
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