「ぜいたくは敵だ」の時代に生れたリンゴの「ふじ」 |
お正月にちなんで「ふじと日の丸」の話をしてみよう。もっとも正確には、リンゴの品種「ふじ」と日の丸弁当の話だが。
半世紀前の昭和14年、日本は戦争のさ中にあった。この年の春、ノモンハン事件が勃発、戦局は一段ときびしくなった。夏には西日本が未曾有の干ばつにみまわれ、 これを契機に食糧事情は悪化、米の配給統制がはじまった。「ぜいたくは敵だ」という標語が街中に溢れ、梅干一つの日の丸弁当が強要されだしたのはこの頃からである。 この年、リンゴのふじは生を受ける。国光を母親にデリシャスを父親として、当時青森県藤崎町にあった園芸試験場東北支場で交配された。 翌年、274個の果実がみのり、2004粒の種子がとれた。種子から発芽した実生苗のうち、596本がやがて実をつける。夏は明けても暮れても薬剤散布、 冬は吹雪をついての剪定と、労苦の末の結実であった。 ここからは味の選抜も加わる。「ノルマは1人1日約30個体、(略)甘いものから酸の強いもの、はては異臭、異味さえあり果物と思えないものまである。 (略)午後の3時を過ぎると腹の調子は乱れ放題、味覚はもうろうとなり夕飯のまずさは格別、万分の1の幻を追って食いまくる努力は、 この道にたずさわった者のみが知る苦しみ」と、当時の研究者は回想する。選び抜かれた最後の1個体がふじと名付けられ、昭和37年に品種登録された。 支場のあった藤崎町と日本一の富士山にあやかったという。 激動の4半世紀、品種改良に係わった人は初代支場長の新津宏以下30名に及ぶ。研究者を戦争にとられ、研究を中断しなければならぬ時もあった。 不要不急と白眼視された時もあった。空腹に耐え、苦難の時代を乗りきることができたのは、先輩から後輩へ受け継がれた育種家の気概のおかげだろう。 ふじは甘くて酸味が少ない。果汁が多く、抜群に日持ちがよい。作りやすく、収量も多い。高度経済時代の消費者のグルメ志向にマッチし、選択的拡大への対応を急ぐ生産者にも好評で、 急速に普及していった。 ふじの原木は今は盛岡に移され、果樹試験場盛岡支場で大きな樹冠をひろげている。この1本から接ぎ木を繰り返して殖やした無数の木々が国の内外でおいしい実をつけている。 現在、我が国のリンゴ生産量は約100万トンだが、その52パーセントをふじが占める。韓国では8割、ブラジルでは5割のリンゴがふじであるという。 アメリカでもふじが急増、自動車に続く技術侵略と話題になっている。ふじの両親、国光もデリシャスも、元来はアメリカの品種である。 相撲の世界なら恩返しの筈なのだが。 日の丸弁当の窮乏の世に生を受けたふじが、半世紀を経た飽食の世に世界の食卓を賑わせている。なんとも皮肉に思えるが、 品種改良とはこうした未来を見据えた仕事なのだろう。 |
(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 1995年1月4日より転載
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