ホーム読み物コーナー > 日本の「農」を拓いた先人たち > 世界初のハイブリッド品種の育成

世界初のハイブリッド品種の育成
〜大正から昭和期の日本経済の支え
今では作物や家畜に利用〜


蚕の外山亀太郎博士



 大正4年の帝国学士院賞は米国で活躍中の野口英世博士に授与された。学術功労者に贈られる我が国最高の賞である。受賞のため帰国した野口を迎えた国民の歓迎ぶりは、 彼の人生のクライマックスとして今も映画や小説にたびたび登場する。だがこの時、同時に受賞したもう一人の科学者外山亀太郎博士については今は忘れ去られようとしている。

 外山は世界ではじめてハイブリッド品種を実用化した。遠縁の品種同士かけ合わせると、その子の一代だけは生育旺盛で揃いもよく、多収になることが多い。 これを品種改良に活用したのがハイブリッド品種である。彼が創ったのは蚕品種だが、今ではトウモロコシ・キャベツ・白菜、それに鶏・豚など多くの作物や家畜がハイブリッドに換わってきている。

 明治35年、東京帝国大学助教授であった外山は1年間シャム(タイ)国に出張した。ここで日本種とシャム種の一代雑種が両親より格段と多収になることを認め、 39年これを蚕種製造に応用することを提唱する。44年には国立原蚕種製造所(後の蚕糸試験場)が新設されるが、外山は招かれて品種改良の指導に当る。 同所で育成されたハイブリッド品種は大正3年から普及に移され、昭和のはじめには国内の全蚕種がハイブリッド品種に換わっていった。

 もっともここでも、民間蚕種業者の協力が普及の支えになっている。大正3年、長野県の今井五介(片倉組)は県原蚕種製造所でハイブリッド蚕の実物を見る。 即座にその将来性を見抜いた今井は仲間とともにハイブリッド種の無料配布、生産繭の全量買取りを断行、国や県の普及活動に協力した。 バイオの産業利用第1号である。おかげで生糸の生産性は急進し、今では桑園面積当り生産量が大正初期の4倍以上に達している。 大正から昭和に至る我が国経済はこのハイブリッド蚕に支えられてきたといっても過言ではないだろう。

「蚕のさまざま」  絵:後藤泱子  科学史上の意義も大きい。作物のハイブリッド品種は昭和15年頃アメリカで育成されたトウモロコシが最初といわれる。その10数年前、 蚕でハイブリッド品種を実用化した外山らの功績は高く賞賛されてもよいだろう。

 「平たい頭、尖って垂れた顎ひげ、下がりぎみの目尻」というのが外山の風貌であったらしい。トレード・マークのひげは本人の自慢とは逆に、 ヨーロッパ外遊の時乞食と間違えられる基になったそうな。「つぎは金魚で国を富ませる」とはりきっていた外山は、大正6年51才で早逝した。 自宅にも桑を植え、金魚を飼って実験を続けていたというのに。

 神奈川県厚木市上古沢、小田急線本厚木駅の北、そろそろ丹沢の山にかかる辺りが外山の故郷である。小高い丘に鎮座する諏訪神社を背に広大な門構えの生家があったという。 今では杉が植林され往時を忍ぶ縁もない。墓だけが杉木立に囲まれて立っていた。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 平成6年12月7日より転載


目次   前へ   次へ

関連リンク : 農業技術発達史へ