日本の稲作地図を書きかえた
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「雨ニモマケズ…」 今では誰もが知っている宮沢賢治のこの詩は、昭和6年の大冷害の年につくられた。ところで、同じ年の冷害が、
長野県軽井沢の一農家に画期的な苗つくりを発想させるきっかけになった。荻原豊次の「保温折衷苗代」である。
保温折衷苗代といっても、今の若い人は知らないだろう。だからあえて、稲作に革命を巻き起こした、この育苗法誕生の話をしておきたい。 「わたしは物好きだから」と、荻原はいつも謙遜していたそうな。その物好きが大発明につながった。近隣の水田を見回るうちに、 同じ品種でも早植ほど冷害に強く稔りがよいことに気がついたからである。 そこで翌昭和7年の春、たまたま野菜苗の温床に紛れて生えていた稲苗を試しに田に植えてみたところ、穂の出が早く、稔りもよかった。 苗さえ早植できれば、冷害に強く、多収にもなる。自信を得た荻原は保温育苗の工夫をはじめた。最初は野菜同様に温床で育苗していたが、 さらに工夫を重ね、昭和17年には独自の育苗法をつくることができた。 水田に苗床をつくり、芽出し種子を床面にすり込む。焼籾殻を厚めにかぶせ、その上を油紙で被覆し、周囲を泥でおさえる。 播種直後は通気をよくするため、溝だけに潅水するが、苗が伸びたら床面まで水位を上げる。2週間ほどして、苗が紙を持ち上げるようになったら油紙を除く。 のちに、保温折衷苗代と名づけられた育苗法である。 昭和18年の春、荻原はたまたま巡回指導にきた長野県農試の岡村勝政技師に会った。「軽井沢の実演を終わってから、荻原豊次さんからきいた苗作りは面白いと思った。 いろいろ苦心談をきいたり、方法論の実際から成績まで突込んで尋ねた。」と岡村は回想する。 岡村のいた原村試験地は八ヶ岳の西麓にある。標高1000メートルの高冷地で、低温のため農家はいつも苗つくりに苦労していた。 よい苗を得ることは、彼にとっても最重要課題だったのである。早速、油紙の比較・播種量・育苗時期などの試験が試みられた。精農の技術が科学で裏づけされていった。 戦後、保温折衷苗代は農林省に取り上げられる。岡村の研究が全国に紹介され、さらに改良されて広まっていった。昭和30年代前半の最盛期には全国で54万ヘクタール、 全水田面積の6分の1に普及していた。 保温折衷苗代の最大の功績は、早植の効果を最初に実証してみせてくれたところにある。1か月以上の早植によって、以後、寒冷地の稲作は安定的な高収を上げるようになっていく。 暖地の早期栽培のきっかけにもなった。 保温折衷苗代によって、日本の稲作の重心は北に大きく移動したといっても過言ではないだろう。この革新技術も、その後ビニール苗代に代わり、 さらに室内育苗の普及とともに今では忘れ去られようとしているが。 |
(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 1996年5月15日 より転載
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