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農家の創意が積み上げた「石垣イチゴ」


〜五代にわたる創意工夫 傾斜畑が宝の山に〜



 今の季節、白雪に映える富士山が美しい。とくに静岡県の日本平・久能山辺りから見る眺めは絶景だ。だがこの辺り、実はもう一つ名物がある。「石垣イチゴ」、 ちょうど今がそのイチゴ狩りの最盛期でもあった。

 石垣イチゴの起源は明治中期にさかのぼる。当時、久能山東照宮の車夫をしていた川島常吉が、宮司からもらった一鉢のイチゴがその端緒である。 日当たりのよい石垣の下に置いたところ、ランナーが伸び、石垣の間に根をはった。翌春早く、石垣で暖められたイチゴは見事に赤い実をつけていた。 川島はこれをヒントに、石垣を利用した促成栽培を思いつく。明治34年のことである。

開発直後の石垣イチゴ。玉石を集めたり、積み上げたりが大変だった。  絵:後藤泱子  久能地域は日本平を背に駿河湾が迫る。急傾斜で米作りには不向き、昔から石垣が多い。〈ならば、いっそ石垣でイチゴ作りを〉と、大々的に石垣栽培をはじめたのは石垣半助だった。 明治40年に東京に初出荷している。

 ここからは時代を越え、世代を越え、地域内の農家の工夫が積み上げられていく。日射しを受けやすい石垣の角度や方角。大変だった潅水、 保温用の油障子やコモの工夫など。

 大正12年には玉石に代わり、V字の切れ込みをもつコンクリート板が、萩原清作と新谷啓太郎の手で開発された。おかげで作業が大変楽になり、 栽培面積が急増した。ちなみに萩原は、川島とは別に石垣イチゴを考え出したと伝えられる。

 石垣イチゴのつぎの躍進は国産初のイチゴ品種「福羽」との出会いからである。「福羽」は明治32年に、当時新宿御苑にいた福羽逸人が育成した。 フランス帰りの彼は促成栽培に熱心で、それに向く品種作りに取り組んだ。「福羽」はフランスから取り寄せた種子の実生から選抜された。実は、 はじめ外国品種の苗を導入して選抜しようとしたが、船での輸送中に枯死してしまった。やむなく種子の導入を考えたのが幸いだった。それまでの外来品種に比し、 著しく大粒で肉質もよく、早生で冬季にも結実する促成栽培向けの品種ができた。久能地域で栽培されるようになったのは、昭和になってからである。

 昭和28年からは苗を富士山麓の低温にさらし花芽分化を促す〈山上げ〉がはじまり、10月中旬の収穫が可能になった。30年代後半にはビニールハウスも出現、 品種もつぎつぎに更新されている。現在ではクリスマスをピークに、翌年5月まで出荷が可能である。

 今でこそ平地の栽培が多くなったが、あの石ころだらけの傾斜畑を宝の山に変えた農家の意欲には敬服のほかない。地域特産の振興が叫ばれているが、 石垣イチゴこそ、その元祖だろう。久能山東照宮の梅園には「石垣イチゴ発祥の地記念碑」が建っている。現在の栽培面積50ヘクタール、生産農家240戸。 もう五代目にもなる歴代の農家の創意工夫は、石垣以上に積み上っていることだろう。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1998年2月11日 より転載


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