「農」を拓くのは農家自身 |
早いもので4年が経った。長い間この欄を書き続けてきたが、この辺で一休みさせていただこうと思う。実は執筆のため多くの方々から貴重な資料をいただいたが、
限られた紙面ですべてを活かすことができなかった。この際、それらを加えて全面的に書き改めてみたい。その時間をいただくことにした。
最初は(5、6回ももてば)と思って書きはじめたのだが、意外に長続きした。連載中、激励を寄せて下さった読者と、貴重な紙面を提供して下さった共済新聞のおかげである。 心からお礼申しあげたい。 この欄の執筆を思い立った動機は二つある。一つは、農業に元気を出してもらおうと思ったからである。最近の農業は苦境にあると、よくいわれる。 でも考えてみると、昔の農業だって楽な環境にあったわけではない。 昭和のはじめ、農村は経済恐慌と冷害に打ちひしがれていた。また戦争中は労力不足と物資欠乏で大変だった。その昭和初頭に山形県の農家佐藤栄助はサクランボ「佐藤錦」を世に出している。 激しい戦争の最中に静岡県の大井上康はブドウ「巨峰」を育成した。これらの品種がどれほど同時代の農家を励まし、つぎの時代の農業を元気づけたことか。 自由化時代の果樹産業の健闘は、こうした先人たちの努力に支えられているからだろう。 二つ目は、農業の技術革新にはプロの研究者以上に、農家が大きな役割を果たしてきたことを知ってほしかったからである。 戦後の食糧危機を救った「保温折衷苗代」は、軽井沢の農家荻原豊次が考案した。野菜の温床に紛れ込んだ稲籾の発芽と生育をみて、 この育苗法を考えついたという。田植機の発明につながる水稲「室内育苗」は、雪深い長野県農試飯山試験地の松田順次が開発した。 早植えができない積雪地の農家との交流が、彼をこの大発明に駆り立てたのだ。当時〈異端の技術〉とされたこの育苗法が普及したのも、 彼とともに実証試験を繰り返した農家の圧倒的な支持があったからである。 どんなに技術が発達し、高水準の研究機関ができても、〈技術の萌芽〉はいつも農業の現場にある。その現場にいて、しかも技術のユーザーでもある農家自身が、 技術革新の核となるのは当然だろう。農業の技術革新を具現できるのは農家だけで、プロの研究者はその介添えに過ぎない。そのことを歴史は忠実に教えてくれているのである。 48回、楽しく書かせてもらったが、実は書き残した〈先人〉も多い。サツマイモ「紅赤(金時いも)」を育成した埼玉県の農家、山田いち。 わが国で見出された唯一の除草剤PCPの生みの親、山梨農試の由井重文。私財を投じて倉敷に大原農業研究所を設立した大原孫三郎と、所長の近藤萬太郎など。 いずれ、こうした先人たちについても、ご紹介できる日を楽しみにしている。 |
(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 1998年3月11日 より転載
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関連リンク : 農業技術発達史へ