直播(じかまき)にかけた執念、
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昭和28年の4月、東京新宿のある会館に80名からの農民・技術者・学者が集まった。「日本直播農業協会」の設立講演会が開催されたのである。
当時、よく読まれていた『農業朝日』は「全国各地の直播農家が、身についた体験を報告し合う姿も印象的だったし、 こうした農民技術の会合には無かった学者や官庁技術者の参加が見られたのも、印象的だった。」と報じている。 この会をリードしたのは大原農業研究所(さし絵参照)の吉岡金市だった。 吉岡は岡山県井原市の農家に生まれた。苦学して京都大学を卒業する。専攻は農林経済学だったが、生涯の多くを水稲直播の技術研究にささげた。 もっとも、いきなり直播に取り組んだわけではない。最初は、やはり大原孫三郎が創立した倉敷労働科学研究所で農業労働の実態調査を行なった。 ここで、彼自身が「記憶のさかのぼり得る限りでの幼少の頃から体験してきた」重労働が、農業の改革を妨げる最大の障害であることを実感する。 重労働の解消には機械化がぜひ必要であるが、田植稲作ではむずかしい。直播こそ農業近代化の決め手と吉岡は考えた。昭和16年には大原農研に移り、 「麦間直播」の研究に取り組む。ちょうど戦争で人手不足が目立ちはじめた時代だった。 麦間直播は5月初旬、生育中の麦の畦間に稲をまく。麦刈り後、生育中の稲に入水し、後は水田として管理する。岡山県など二毛作地帯では田植・麦刈りの競合が避けられるし、 干拓地では田植期の水不足からまぬかれられる。吉岡はこの農法を科学的に追求して、その成果を直接農家に奨励していった。 農家とともに作る。彼の研究法は独特だった。研究所だけでなく、農家の田んぼで農家とともに作り上げていく。研究であるとともに、農業近代化の実践活動でもあったのだ。 残念ながら、麦間直播は雑草などのためにその後衰退していった。直播農業協会も解散した。だが、吉岡の直播に対する情熱は消えることがなかった。 つぎは「ばらまき直播」と、つねに情熱をもやしつづけた。 我が国の直播面積は昭和49年の5.5万ヘクタールが最高で、現在は8千ヘクタールに留まっている。だが、その過半数を今も岡山県が占めている。 吉岡だけの功ではないが、地域の実態の上に農家参加で作り上げた技術の強さを示すものだろう。 頑固で行動的な人だった。「いつか、直播の世がくる」60冊を越す著書はつねに農家・技術者を勇気づけた。努力家で、農学・経済学・医学と三つの博士号を取得していた。 吉岡を直播の研究者とだけみるのは正しくない。彼がめざしたのは農家ととも歩む技術変革だった。冒頭の協会設立などはその現われだろう。 そういう意味では、これからが吉岡を必要とする時代なのだが。惜しいことに昭和61年、84才で亡くなった。 |
(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 1996年2月28日 より転載
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関連リンク : 農業技術発達史へ