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雑草との長い戦いに、あえて挑んだ
大原農業研究所と笠原安夫
発芽への光の影響など基礎研究


〜除草剤開発へ大きく貢献〜


大原農業研究所と笠原 安夫



 「田の水はわきかえりてむせるが如し。稲葉のへりは鋸(のこぎり)刃の如くにて、顔と手に傷つき痛み、蛭(ひる)にかまれ…」

 200年昔の越後の農書「粒々辛苦録」にある田の草とりの情景である。「農業は雑草との戦い」といわれる。にも拘らず、戦前までの農業は人力除草だけが頼りだった。 草とりの強い助っ人が欲しいというのは、遠い昔からすべての農家の切実な願いであった。

 「君は若いのだから、この仕事を20年もつづければ成果が出るよ」昭和7年、大原農業研究所の近藤万太郎所長はこういって若い研究員の笠原安夫に雑草の研究をすすめた。 我が国雑草研究の事始めである。

 もっとも、彼の前に雑草研究を手がけた人がいなかったわけではない。大正13年、三重県農試の田口武之助技師が塩素酸カリを用いて開墾地の根ザサ枯らしを試み、 殺草効果が高く跡地の麦作に影響がないことを確かめている。だが、本格的な雑草研究となると、やはり笠原からはじまるといってよいだろう。

主な水田雑草 コナギ(左)とタイヌビエ  絵:後藤泱子  笠原がいた大原農研は美術館で有名な大原孫三郎の創設になる。我が国ではあまり例をみない民間研究機関で岡山県倉敷市にあった。 ちょうど日本中が戦時色に染まっていった時代である。この時代、あえて先のみえにくい研究に打込んだ研究者とそれを支援した研究所があったとは。 すばらしいことである。

 笠原はまず雑草の発芽に対する温度や光の影響をみるという基礎的な研究に取り組む。雑草防除の基本になる研究だからである。やがて戦争で労力不足が深刻になると、 研究の重点は薬剤防除に移された。工場廃液や海水まで含めて当時手に入る十数種の薬剤が試されたが、結局資材不足で頓挫してしまった。

 戦後、雑草研究は新しい展開をみる。2,4-Dの登場である。もともと植物ホルモンとしてアメリカで合成されたが、 あちらでは芝生のタンポポ枯らしやトウモロコシ畑の除草用として注目されていた。水田除草用に着目したのは東京大学の野口弥吉教授である。 昭和23年には笠原を含む大学・試験場の共同研究が発足し、コナギやカヤツリなど広葉の雑草に効くことが確かめられた。

 ここから除草剤の時代がはじまる。多くの研究者と企業が参加して水田用・畑作用などの除草剤がつぎつぎと開発され、今日に至る。 おかげで昭和20年ころ50時間を要した水田の除草作業が、今では2時間ですむ。もちろん、畑作・野菜作などでも大きく役立っている。戦後技術革新の一つだろう。

 除草剤ができる前、笠原は「私の夢は泥田を這い回らぬ農業」と述べている。農薬依存が反省される昨今だが、泥田からの解放を成し遂げた功績が消えることは決してない。 近藤は20年といったが、笠原は雑草研究に生涯を捧げて今も健在である。大原農研は多くの先見的な研究に成果を上げて、昭和26年岡山大学に移管された。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1996年1月31日 より転載


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