連携プレーが生み出したコシヒカリの奇跡(2)
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音楽だけは並外れて成績がよいが、国語・数学などの主要科目はさっぱりで、どこかひ弱にみえる天才児にコシヒカリは似ていた。はたして社会に出て、
天分を発揮してくれるか。関係者は随分心配したにちがいない。
その心配を抑え、この品種を世に送り出す力となったのは、当時の新潟県農業試験場長杉谷文之の「栽培法でカバーできる欠点は致命的欠陥に非ず」という言葉であった。 氏のけい眼がなければ、コシヒカリは陽の目をみなかっただろう。なにしろ、命名時にはタオスナという候補名まで話題になり、コケヒカリとかげ口されたほど、 倒れやすく、いもち病にも弱い欠点をもっていたのだから。 ともあれ昭和31年、新潟県と千葉県で奨励品種に採用された。 こうして世に出たコシヒカリだが、意外な味方が現われる。32年に奨励品種に採用した栃木県で、冷水に強い特性が明らかにされたのである。 当時、那須野原に入植していた開拓者の地下水潅漑田で冷水に強い長所が見出され、それが契機になって北関東や千葉の早植・早期栽培地帯に普及していった。 つぎに普及したのは東海近畿以西の早期栽培地帯であった。コシヒカリは倒れやすいが、稈が折れにくいので実の入りがよく、それになによりも穂発芽が少ない長所がある。 おかげで高温多湿下で収穫を迎える早期栽培用に歓迎された。 ちょうど、当時増えてきて早期栽培米の品質・食味の悪さが問題になりはじめた時期である。消費者や市場の良質米志向がコシヒカリを後押ししていった。 44年に自主流通米制度が発足すると、いよいよおいしいコシヒカリは全国的に注目される。まず福井など北陸各県が普及に踏み切り、以後、 関東以西の各県につぎつぎと普及していった。 栽培技術が効果を上げはじめたのはこの頃からである。新潟県など各県で、基肥を減らし、早植密植と水管理を重視する栽培技術の改良が熱心に進められた。 おかげで今のコシヒカリは30年前に比べて、稈長で10センチ短く、収量は30パーセントも向上したといわれる。ひ弱にみえた天才児が周囲の励ましに応えてたくましく変身し、 見事に天分を発揮したのである。 コシヒカリの命名は「越の国に光り輝く」ことを願ったものだという。越の国どころか、今では日本中に光り輝く巨星にまで生長した。 ここまでくると育種家だけの力ではあるまい。この品種のもち味を伸ばし、それぞれの地方に適した栽培技術を創り上げていった全国の試験場・普及員さらには農家の努力にも負うところが大きい。 おいしい国産米にこだわる消費者の声もその支えになってきた。 コシヒカリこそ、日本農業と日本人の総力が創り上げた奇跡の品種ということができるだろう。 |
(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 1994年10月5日より転載
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