「たしかな事実」のあかし |
夏になると、ブドウの「巨峰」がくだもの屋さんの展示棚を飾る。大つぶで深紫色の果粒、並外れた甘さとしまった肉質、芳醇な香りが、
高級品好みの最近の消費者に受けるからだろう。
平成5年現在の栽培面積は6千530ヘクタール、全ブドウ面積の3割を占め今も伸ている。自由化時代のわが国農業にとって、頼りになる仲間である。 その巨峰は民間育種家大井上康によって昭和20年に育成された。 大井上は海軍少将の子、父の勤務地広島県江田島の兵学校官舎で明治25年に生まれた。当然、軍人になるべきところを、幼時に結核性関節炎をわずらい片足が不自由だったため、 農業改良をこころざす。東京農大を卒業後、理農学研究所を設立、大正8年から静岡県中伊豆に住み、本格的なブドウ研究をはじめた。とくに語学に長け、 仏・英・独などの文献を広く読破、30才の時には渡欧して2年間フランスなど各国のブドウ研究に学んで回ったという。 巨峰は岡山県石原農園で発見されたキャンベルアーリーの枝変わり系統「石原早生」とオーストラリアの品種「センテニアル」とを交配した4倍体品種である。 雨の多い日本の露地で作る大粒種というのが育成の狙いであった。 交配は昭和12年で、育ったのは戦中戦後の食料難の時代である。当然世に入れられず、少数の理解者によって守られてきた。 巨峰はまた倍数体品種の宿命で環境変化に弱く、着花稔実は不安定になりがちで、栽培が難しい。才能は抜群だが気むずかしく育てにくい天才少年のような品種であった。 |
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この気むずかし屋の品種が伸びたのは、大井上とその理解者たちによって、剪定や房作りなど樹勢を調節する技術開発が徹底的になされたからである。
その仲間が後年、日本巨峰会を結成する。今どきの言葉でいえば、強力なサポーターの支援であろうか。巨峰を創ったのは大井上だが、育てたのは巨峰会であろう。 現在会員数5千人あまり、各県はもちろん海外にも支部をもつ。研修会をつねに開き、生産だけでなく品質管理・販売まで、会員相互の研さんと情報交換に励んでいるという。 閉鎖的というそしりがないわけではないが、限られたメンバーで品質をきびしく管理し農産品の市場評価を高めていく、これからの農業にはぜひ必要な行き方の一つであろう。 大井上は昭和27年に亡くなった。研究所は長男の静一氏が継いでいる。梅雨のある日、修善寺近くの丘の上に研究所を訪ねてみた。天気のよい日には正面に広大な裾野をもつ富士山が見える。 大井上はこの景観にちなんで「巨峰」と命名したという。 富士を背に大井上の胸像と記念碑が建つ。碑文には「何よりもたしかなものは事実である」とある。終生、野に生きて技術革新に尽くした大井上ならではの自信に満ちた言葉である。 |
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(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 1994年8月3日より転載
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