稚苗田植機の誕生、 |
「関口君、今度は田植機をやってみないか」
戦前戦後の農業研究をリードし、神様のように畏敬されている寺尾博から、関口正夫はある日こう声をかけられた。 当時、寺尾は農林省農事試験場長を退官、我孫子の(財)農電研究所で顧問をしていた。通勤の道すがら、よく神田の東京電研製作所に関口を訪ね、話し込むのが楽しみだったという。 昭和35年頃のことである。 現在の田植機は箱育苗で育てた土付苗を植え付ける。箱育苗はもともと寒冷地の保温育苗技術で、29年に長野県農試雪害試験地(飯山)の松田順次によって考案された。 はじめは保温に炭火を用いていたが寺尾の目に止まり、農電研究所で電熱育苗器が開発されてから急速に普及する。安全で、器内温度を一定かつ均一に保つことができるためだが、 その心臓部の均熱板やサーモスタットを開発したのが協力業者の関口である。 自分のアイデアをつぎつぎと実現してくれるこの「電気屋さん」を、寺尾は頼もしく思ったのだろう。最後に託した大仕事が田植機の発明だった。 関口はしかし「最初は尻込みした」と回想する。農業にも機械にもズブの素人だったからである。その素人が幸いした。 前回も述べたが、当時は4〜6葉程度の成苗が田植えに最適で、それ以外では減収すると考えられていた。この定説に縛られて、多くの田植機の発明が難航していたからである。 実は寺尾もこの定説の主唱者の一人だったが、一転して稚苗田植機の発明を推奨する。自ら育苗器の普及のため全国行脚している中に、 各地で試みられていた稚苗直植のよさを認めたからである。経験豊かで柔軟な老学者の思考と拘わりのない技術者との創造意欲の結合が、 はじめて田植機の発明を可能にしたのだろう。 田植機発明を関口に託した寺尾は、その完成を待たずに36年に亡くなった。79歳であった。同年、関口は試作1号機を発表する。 当時の箱育苗はジグザグに折り込んだポリシートの谷に床土を入れ、短冊状の土付苗を得る方式である。そのシートを巻き取り、 送り出される短冊苗を1株分ずつ切断・落下させるだけの苗播機であった。 1年後、植付爪によって短冊苗を切断し、同時に植え込む人力一条田植機が試作された。農事試験場で開催された研究会では、他社の試作機を尻目にスイスイと植付けていったという。 この2号機がさらに改良され、40年秋にカンリウ工業から農研号と命名され、市販に移された。10アール当たりの田植時間は2.5〜3時間というから手植えの7〜8倍。 苗箱を積んだソリ付き手押し車といったオモチャのような機械であった。 農業の歴史を画した土付稚苗田植機の発明、その幕開けは老農学者の情熱と一民間技術者の努力にあった。関口は75歳、今も東京近郊で現役技術者としてがんばっている。 |
(西尾 敏彦) |
「農業共済新聞」 1994年7月6日より転載
目次 前へ 次へ
関連リンク : 農業技術発達史へ