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ごみ溜めから生まれた「二十世紀」ナシ


松戸覚之助の大発見



 20世紀もそろそろ残り少なくなってきた。そこで、この100年を見事に輝きつづけてきた品種の話をしておきたい。その名も「二十世紀」ナシ。 他の農作物をみても、これほど長い間高い評価をもち続けた品種はない。二十世紀とは、よくこそ名づけたものである。

 ナシの二十世紀は、明治21年に千葉県八柱村(現・松戸市)の松戸覚之助によって発見された。この大品種も、もとは親類のごみ溜めに自生していたみすぼらしい幼木だったという。 当時13才の覚之助少年がこのちょっと変わったナシに目をつけ、自園に移植したところからこのドラマははじまる。

 松戸地方は江戸時代からナシの産地だが、覚之助の家はちょうど2年前にナシの栽培をはじめたばかりだった。ナシ作りに未来を託そうという一家の意気込みが子供にまで伝わって、 覚之助がこの幼木に興味をもつ結果になったのだろう。

 もっとも、覚之助の偉かったのはここからである。幼木は黒斑病などの病気に弱く、彼の熱意がなければ枯死していたに違いない。10年にも及ぶ丹精のかいあって、 はじめて実がなったのは明治31年だった。食べてみると、甘く果汁に富む。早速「新大白」と名づけ、世に問うことにした。

 明治37年、当時広く読まれた「興農雑誌」には「驚くべき優等新梨(新大白)の紹介」という記事が載った。 「其味の優等甘味にして漿液最も多く恰(あたか)も甘き西洋梨の如く且つ少しも口中は渣滓を止めず実に完全の梨果と称するを得べし…」と激賞している。 当時としては、抜群のおいしさだった。

ナシの木をイメージした二十世紀公園のモニュメント。このあたり、昔はナシの花が美しかった。  絵:後藤泱子  二十世紀と改名されたのはこの年である。西暦1904年、日露戦争が勃発した年でもあった。戦争後の好景気とともに、全国各地で栽培面積を増やしていった。

 二十世紀の産地としては、今では鳥取県・長野県が有名である。地元の千葉県は降雨が多く、病気にかかりやすいため栽培がむずかしかった。 最盛期の全国栽培面積は6000ヘクタールを上回り、昭和47〜63年の間は全栽培品種の王座に君臨した。

 現在は「幸水」「豊水」についで3位だが、この両品種とも二十世紀の血を受け継いだ子孫に当たる。覚之助の偉業はますます輝きを増しているというべきだろう。

 二十世紀の原木は天然記念物の指定を受けていたが、太平洋戦争の空襲で枯死し、記念碑のみが残っている。この辺りは戦後の区画整理で街に変わり、 わずかに「二十世紀が丘」「梨元町」の新地名が当時をしのばせる。

 とはいっても、覚之助に対する追慕の念が地元から消えたわけではない。平成2年の8月から7週間、松戸市文化ホールでは特別展「はばたけ二十世紀梨、 松戸覚之助の大発見物語」が開催された。市立博物館には「二十世紀梨特別展示室」があり、原木の遺片が今も参観者の興味をそそっている。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1996年12月11日 より転載


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