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リンゴの王さまを育てた大槻只之助と
「王林会」の仲間たち
〜情熱が生んだ”奇跡”〜


大槻只之助と仲間たち



 「じーさんはいつもうまいリンゴさみると、種をとっといて実生畑にまいてたもんな」と、大槻一雄さんは語った。祖父に当る大槻只之助にまつわるエピソードである。

 独特の香りと味で人気のあるリンゴの「王林」は、福島県桑折(こおり)町の農家大槻只之助によって育成された。福島から東北本線で北に20分あまり、 桑折には今も王林の原木がある。樹齢60才の老木だが、今年もたわわに実をつけていた。傍らに、町と農協によるミカゲ石の顕彰碑が建っていた。

 「実生畑はこの辺りにあったんす」と、孫の大槻さんが一遇を指さしてくれた。すきな酒を飲み、実生畑を見回るのが、大槻のなによりの楽しみだったという。

 この辺りは、かつて養蚕がさかんな土地だった。大槻ももともとは蚕種問屋を営んでいた。蚕種をめぐる競争ははげしい。商売柄、品種の重要性を痛感していたのだろう。 昭和初頭に果樹振興が叫ばれると、リンゴの品種改良に興味をもつようになったという。

60年の風雪を感じさせる「王林」の原木  絵:後藤泱子  王林はゴールデンデリシャスと印度の交配種という説もあるが、どうやらデリシャスの偶発実生から選抜されたものらしい。

 育種学からいえば常識外れだが、すばらしい品種ができたのはまちがいない。大槻の情熱がこの奇跡を生み出したのだろう。はじめて実がなったのは昭和18年だった。

 このリンゴのおいしさに最初に眼をつけたのは、近くの伊達農協の大森常重組合長だった。果皮はやや青味のかかった黄色だが、肉質が緻密で果汁に富み、甘味にまさる。 なによりも、豊潤でさわやかな香りがこの品種の特長だ。

 これこそリンゴの王さまと、王林と命名したのも大森だった。昭和27年のことである。大森らの努力で、この年から東京市場に出回るようになっていった。

 王林は農林省の登録品種になっていない。外観が悪く、果面の点々がめだつことなどが欠点とされ、審査をパスしなかったとか…。だが、そんなこととは関係なく着実に普及していった。 審査会が認めなくても、仲間の農家が品種のよさを認めたからである。

 昭和36年には、桑折の農家45名が集まって「王林会」が発足した。王林独自の無袋栽培技術はここで確立されていった。彼らの活動は10年後に農協に引き継がれたが、 こうした仲間たちの努力によって各地に拡がり、栽培面積も増えていった。原木は今でも「王林原木保存会」をつくり、守っている。

 平成6年現在、王林の結果樹面積は4.8千ヘクタール、全リンゴ面積の9パーセントを占める。ふじ・つがるについで3位である。生産地も青森・長野など全国各県に及ぶ。 はるかアメリカまで関心をよび、ワシントン州では奨励品種になっているという。

 昭和47年、大槻は85才で亡くなった。太平洋の彼方にまで拡がった自らの分身を、どんな思いでみているだろう。

(西尾 敏彦)


「農業共済新聞」 1996年9月11日 より転載


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