ホーム読み物コーナー > 日本の「農」を拓いた先人たち > 農家が自脱型コンバインを選んだ時

農家が自脱型コンバインを選んだ時
〜コンバイン開発に2つの意見
 技術の大きな分かれ道〜



 技術の歩みは、ときどき大きな分れ道に突き当たる。右を選ぶか、左をとるか。稲作に自脱型コンバインが選択されたのも、この分れ道の一つであった。

 昭和30年代後半といえば、稲作機械化の最盛期である。収穫機についても、試験場・メーカーを巻き込んだ開発が、精力的に行なわれていた。ただ、 その将来見通しとなると、二つの意見があった。

 一つは、この際、大規模農業に向け、欧米で開発された「普通型」の大型コンバインを導入改良すべきとする意見。すでに各地に導入され、 その適用試験が行なわれていた。

 もう一つは、我が国の営農実態に即した小型機を独自に開発すべきとする意見。刈取りと結束をこなすバインダーは開発されつつあったが、 さらに脱穀まで一貫した「自脱型」コンバインの開発を求める声が高かった。

 ワラまで扱(こ)き胴を通す普通型と違って、自脱型コンバインは穀粒のロスが少なくてすむ。だがその分、構造は複雑だ。当時の農林水産省などの多数意見は普通型に傾いていた。 自脱型開発にはまだ相当の年月を要する、というのが大方の意見だったからである。

 ところが、こうした予想に反し、自脱型コンバインの開発は急速に進む。火をつけたのは、当時農事試験場(後に農業機械化研究所)にいた狩野秀男である。 「普通型コンバインでは穀粒の損失と損傷が多くて、将来我が国の集約農業には不向きとされる時が来る…」と考え、自脱型研究に着手したという。 昭和37年には、すでに1号機を試作している。

商品化第1号の自脱型コンバイン  絵:後藤泱子  もっとも、自脱型開発の最大の功労者は、なんといっても農機メーカーであろう。昭和38年には、狩野の呼びかけで「水稲収穫機械化研究会」が発足する。 30万円以下のコンバインが開発の目標だったという。

 以後、各メーカーが熱心に開発に取組むが、最初に商品化に成功したのは井関農機だった。

 同社の井関博取締役らのチームが、二条刈り歩行型コンバインが完成したのは昭和41年秋のこと。社内にもあったという危惧の声の中を、 あえて開発に挑んだ技術者の努力が先陣争いを制する結果になったのだろう。狩野の提唱から3年、予想を上回る早さだった。

 翌々年には各社の製品も出揃い、自脱型コンバインの時代が到来する。ちょうど高度経済成長のさ中である。農家は稲刈りも早々に出稼ぎに行けるようになった。 当初気にした生もみ脱穀も、乾燥機の普及で切り抜けることができた。分かれ道で、自脱型を選択したのは結局、農家だったのだろう。


 平成5年現在、自脱型コンバインの普及台数は116万台に達する。今ではほとんどが乗用型に変わり、六条刈りなど大型化も進んでいる。 普通型はもうあまりみかけない。今では通り過ぎてきた分かれ道の一つになってしまったようだ。


(西尾 敏彦)

「農業共済新聞」 1996年8月14日 より転載


目次   前へ   次へ

関連リンク : 農業技術発達史へ