「あのころは遺伝子操作などという方法はなく、観察だけが頼りでした。朝昼夕と日に3回は畑を見て回ったものです」
92歳の高齢にもかかわらず、小松一太郎(こまつ いちたろう)氏は元気である。静かな口調でこう語った。この人のおだやかな眼が、
世紀の大品種、コムギ「農林61号」を選び出したのかと思うと、感慨深い。
今年も内地の小麦畑の半分に「農林61号」が実った 【絵:後藤 泱子】
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農林61号は今もコムギの主力品種である。平成11年現在の栽培面積は全国2位で、3万4千900ヘクタール(21.2%)、北海道を除けば、47.3%のシェアを誇る。
昭和19年に佐賀県農試で育成されて以来、北関東から九州までの広域に普及し、一時は北海道でも栽培された。昭和34年から53年までは全国作付面積のトップを占め、
最盛期には22万ヘクタールを超えている。この品種がもつたぐいまれな広域適応性がもたらしたのだろう。
農林61号は昭和9年、当時福岡県羽犬塚町(現筑後市)にあった九州小麦試験地で交配された。当時は国で交配を行い、後代を県農試が選抜する仕組みになっていたのである。
両親は「新中長(しんちゅうなが)」と「福岡小麦18号」。当時、九州で栽培されていた多収品種の血を受け継ぐ最高級の組み合わせであった。
昭和13年、この組み合わせの雑種4代、363系統が佐賀農試に配布されてきた。小松が農林61号の育成にたずさわるようになったのは、この時からである。
偶然だがこの年、小松は新任の育種主任として、この地に赴任してきたのである。
ここから、6代にわたる選抜がくり返された。戦争が熾烈(しれつ)をきわめた時期のことで、育種に従事していた仲間も、つぎつぎ召集されていった。だが、人手不足の中でも、
選抜は続けられた。くる日もくる日も続く観察の中で、小松が着目した系統が1つだけあった。<出穂のころはめだたなかったが、収穫直前になって急に粒が充実してきた>系統である。
今にして思えば、これが半世紀にわたりゆるぎない地位を築いた大品種、農林61号がこの世に生を受けた瞬間であった。
農林61号は不思議な品種である。育成当時は中生・短稈種にランクされたが、今では晩生・長稈種に属する。熟期がおくれて二毛作がむずかしい上に、倒れやすく、
機械化には不向きである。にもかかわらず、この品種が衰えを知らぬのは、安定多収で品質もよく、<めん用>として実需者の評価が高いからである。「いまだに61号か」と陰口されても、
これを凌駕(りょうが)する超良品質品種はなかなか現れない。多くの育種家がこの横綱に挑戦したが、つねにはじき飛ばされて今日に至っている。
5月の中旬に、藤沢に小松を訪ねてみた。戦後、行政に転じた彼は36年に農林省を退職、ここに静居して余生を楽しんでいる。突然の訪問にもかかわらず、
当時のガリ刷り成績書まで出してきて、質問に応じて下さった。白髪で長身、風雪に耐えてなお元気な彼の風貌に、今も衰えを知らぬ農林61号が重なってみえた。
私だけの感傷だろうか。
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