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ブランド米の先駆「あきたこまち」を育成

〜 秋田農試 畠山俊彦と仲間達 〜


イラスト

「米どころ秋田」の秋は、あきたこまちがたわわに実る
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 「育種をはじめるなら、材料を分けてあげましょう」。福井農試の研究者からそう言われた時、畠山俊彦(はたけやま としひこ)は正直とまどった。 実は直前に訪れた北陸農試でも材料を分けてもらっている。昭和52年3月、新設されて間もない秋田農試水稲品種科から、畠山が勉強に赴(おもむ)いたときのことであった。

 我が国の水稲育種は一部を除き、農林水産省の試験場と同省が指定する道県農試(指定試験地)が推進してきた。北陸農試も福井農試もこのスクラム体制のメンバーだが、 新たに育種をはじめる秋田農試はその外になる。<大切な材料を部外者に分けてくれるはずがない>と思っていた畠山にとって、これは意外な育種仲間の厚意だった。 後に「あきたこまち」と名付けられた大品種の胎動は、この時はじまったといってよいだろう。

 話は昭和40年代にさかのぼる。米余りが深刻化し、おいしい米でないと売れない時代がやってきた。ところが当時の秋田県には、適当な良食味品種がない。コシヒカリもササニシキも、 ここでは晩生に過ぎて栽培できなかった。米どころにふさわしい良食味品種がほしいという農家の声に応(こた)え、秋田農試が育種に着手したのが昭和51年。ここから畠山たち水稲品種科の苦闘がはじまった。

 福井農試が分けてくれたのは雑種1代(コシヒカリ×奥羽292号)の1株だった。もちろん秋田農試が独自に交配したものにも優良系統がなかったわけではない。だが選抜の結果、 最後に残ったのは、この福井交配の後代系統だった。「よその交配では」という声がなかったわけではないが、ここは秋田農試が信義に応える番だった。<秋田の風土とわれわれでなければ、 絶対できっこない>という自信が、彼らの決断を支えたに違いない。昭和59年、あきたこまちは世に出た。コシヒカリに比べて早生で、倒伏に強く、食味でも引けを取らない自信作の誕生だった。

 あきたこまちほど、誕生前から農家の期待を集めた品種も珍しい。命名も「あきたこまち」か「あきこまち」か、最後までもめたそうだが、農家の<おれたちの米>意識が「あきた」を選ばせた。 せっかくできたおいしい米の評判を落とさないよう、種籾(たねもみ)を厳選し、栽培も篤農家に限定するなど、当初は計画的な作付け拡大に努めたという。

 農業団体の力の入れようもすごかった。農試の育種を支援して、施設の一部を寄贈している。市女笠姿の秋田美人を配した清新なデザインのパッケージも消費者に受け、 この品種の躍進に大きな力になっていった。

 育種仲間の友情、農家・農業団体の後押し、これに応えようとした秋田農試のがんばり。すべてがかみ合って、今日のあきたこまちの地位は築き上げられたのだろう。

 平成10年現在、あきたこまちの全国普及面積は13万2千ヘクタール、コシヒカリ・ひとめぼれについで3位を占める。特筆すべきは、その6割が県内、残りも近県に集中している事実である。 最近は「はなの舞」「きらら397」など、つぎつぎと地域ブランド米が育成されているが、その先駆(さきが)けの名誉は疑いもなく、あきたこまちに帰せられるべきだろう。 ちなみに畠山は、現在農試次長として活躍中である。
「農業共済新聞」 2000/08/16より転載  (西尾 敏彦)


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