「坂井君が九州に行ってもいい品種はよう作らんが、焼酎(しょうちゅう)の消費量だけは伸ばしてくれるだろう」
後に大品種コガネセンガンを育成した坂井健吉(さかい けんきち)は当時から焼酎党だったようだ。はじめて九州農試に赴任する時、こう先輩に激励? され、送り出されたという。
戦後の食糧難が解消し、サツマイモの需要が激減しつつある最中(さなか)のことであった。
昭和30年代になると、農林省はでん粉工業の進展を背景に、新たな需要喚起作として、でん粉原料用サツマイモの生産を奨励する。品種改良の目標も高でん粉品種の育成に転換され、
この目標に向け突き進むことになった。
肥えた畑のコガネセンガンは1株で30キロ以上のイモをつける 【絵:後藤 泱子】
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サツマイモは栄養繁殖植物であり、品種改良にはヘテロシス(雑種強勢)を利用する。ただしヘテロシスはどんな品種間でも発現するわけではない。残念ながら、当時の我が国の品種は近縁関係にあり、
ヘテロシス効果はあまり期待できなかった。さっそく国内外から1,300の品種系統が収集され、高でん粉品種の育成が進められることとなった。
ヘテロシスの品種改良では、遺伝的血縁関係が薄く、組み合わせ能力の高い品種間組み合わせを見いだすことが第一。近親交配によって可能な限り遺伝子の集積を図ることが第二。
後は品種同士を交配し、優良系統を選抜していけばよいのだが、その際でん粉含量の検定を迅速かつ大量にこなす必要があった。
坂井の仕事ぶりはモーレツそのものだった。研究室のメンバーは12人だが、一丸となって仕事に突進していった。7ヘクタールの圃場を駆使し、1,500からの試験区を設ける。
優良組み合わせの交配によって得た種子を播き、その実生1年目のイモを選抜する。
2年目から、いよいよでん粉含量の検定がはじまる。切干歩合で粗選し、ついででん粉歩合を精査していく。収穫後の9〜11月は戦争のような忙しさ。最盛期には日に切干歩合2千点、
でん粉歩留まり500点、従来の4〜5倍の能率で品質検定をこなした。切干用の千切り機で指を削ることもしばしばあったという。
昭和41年、こうした努力が実り、コガネセンガンは育成された。チモール島の品種と日本在来の血が各4分の1、アメリカ品種の血が2分の1含まれるヘテロシス品種である。
命名は<黄金色のイモがざくざく>に因(ちな)む。たしかに従来の品種に比べ、収量で3割、でん粉含量で3〜4%も高い画期的な品種の誕生だった。先輩の予想を超え、
坂井は焼酎の消費量だけでなく、歴史的大品種の育成にも貢献したわけである。
コガネセンガンは九州はもちろん東日本全域で広く栽培され、昭和46年には最高3万5千ヘクタール、全栽培面積の31%を占めた。多収の上に食味がよいため、
青果用・加工用としても人気があり、今でも8千ヘクタール弱が栽培されている。
坂井は農業環境技術研究所長を最後に農林水産省を退職。相変わらずサツマイモに夢中で、最近も著書「さつまいも」(法政大学出版)を公表した。「坂井さんと話していると、
いつの間にか話題がサツマイモか焼酎の話になってしまう」と噂(うわさ)されているが、頓着しない。根っからのイモ好き人間なのだろう。
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