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補助品種から育てたナシ「幸水」

〜 埼玉県の農家・技術者たち 〜


 十月(かんなづき)時雨(しぐれ)の常か吾背子が屋戸(やど)のもみち葉ちりぬべく見ゆ (万葉集)
 注に<大伴家持(おおともの やかもち)、梨の黄葉をみてこの歌を作れり>とある。万葉人(まんようびと)は果実だけでなく、黄色に彩(いろ)づく秋景色まで愛(め)でていたらしい。

イラスト

ナシの「幸水」は「新水」「豊水」と続くおいしいナシ
「三水」の先駆でもある
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 万葉の昔はともかく、今の日本人に最も人気のあるナシはなんといっても「幸水(こうすい)」だろう。平成9年現在、結果樹面積6,500ヘクタール、品種別でも第1位の37%を占める。 8月中旬から出荷される早生種だが、濃厚な甘みとジューシーな肉質は、過去のナシでは味わえない。まさに画期的な大品種である。

 幸水は太平洋戦争がはじまった昭和16年に、当時静岡県清水市興津(おきつ)にあった農林省園芸試験場(現果樹試験場カンキツ部)で交配された。この時期、 園芸試験場ではナシの交配がさかんに行われ、1,818の実生系統を作出しているが、幸水はその一系統だった。

 幸水が育成された時期は戦中・戦後の混乱期に当たる。園芸試験場の平塚市への移転時期とも重なった。育成者の梶浦実(かじうらみのる)部長(後の園芸試験場長)らの苦労は、 生易しいものではなかったろう。

 昭和34年、交配から18年後に幸水は世に出た。だが、当時の幸水に、今日の面影はない。なにしろ花芽の着生が悪い上に、果実はちっぽけで収量が上がらない。 しかも変形果が多く、商品化を危ぶむ声も多かった。同時に育成された2系統が品種登録された後、当時の主要品種「長十郎(ちょうじゅうろう)」の受粉用補助品種も兼ねることで、 やっと登録されたという。

 幸水の生みの親が園芸試験場なら、育ての親は埼玉県のナシ農家とこれを支えた技術者たちだろう。彼らの強力なバックアップなしに、今日の幸水は存在しなかった。

 ここで埼玉県のナシ生産事情に触れる。当時、埼玉県は長十郎の大産地だったが、出荷ではいつも千葉県に先を越されていた。<もっと早く出荷できる品種はないか>そこで目をつけたのが、 誕生直後の幸水だった。県農業試験場(後の園芸試験場)猪瀬敏郎(いのせ としろう)部長の発案という。

 「あのころは、なんとか幸水をものにしようと、いろいろなせん定法を試してみたものです」。猪瀬はすでに亡いが、彼とともに活躍した井上四郎(いのうえ しろう)元専門技術員はこう語る。 農家と普及員と研究者と、みんなが集まり、毎日熱心に論議しながら、試行錯誤を繰り返したという。成果はまもなく現れだした。

 昭和42年、この仲間の農家河野当一(こうの とういち)が新しいせん定法を雑誌に公表する。従来の長十郎などで試みられていた短果枝主体の仕立てから、 予備枝を利用する長果枝主体のせん定法に切り替えようというものであった。このころになると樹齢が進み、果実が大きくなったことも幸いする。収量が増し、評価も高まっていった。

 幸水の新しい栽培技術は今では埼玉県だけでなく全国ナシ農家の財産になっている。新しいせん定法を開発した1人1人が他県農家にまで広く伝えて回ったからである。

 「つき合いの中で樹が教えてくれた」と井上はいう。幸水の今日の栄光は、まさしく樹と技術者、樹と栽培農家のつき合いの中から生まれてきたといってよいだろう。
「農業共済新聞」 2000/10/11より転載  (西尾 敏彦)


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