農作物余りが深刻化して、イネの飼料化まで話題にのぼるご時世である。これからの農業には新しい需要を喚起する技術開発が欠かせないが、そのはしりはなんといっても戦後のサツマイモのケースだろう。
太平洋戦争で日本中が食糧難に喘(あえ)いでいた時、国民の食を支えてくれたサツマイモも食糧難が去ると、たちまち生産過剰に陥った。とはいえ、サツマイモは南九州など畑作地帯の換金作物として欠かせない。
政府はこれをでん粉原料として買い上げ、ブドウ糖製造などに向けるが、それだけでは用途が限られていた。甘さが砂糖の70%程度、食品素材としてイマイチ魅力に欠けたからである。
そこで着目されたのが、ブドウ糖の果糖への変換だった。果糖はブドウ糖と製造は少し異なるが分子式は同じ。砂糖の150%の甘さをもつ。サツマイモでん粉からつくったブドウ糖の一部を果糖に変え、
ブドウ糖・果糖の混合糖ができれば、砂糖なみの甘さをもつ安価な甘味料ができるわけだ。これが本題の「異性化糖(いせいかとう)」である。
昭和30年代の食糧研究所庁舎。 当時東京都江東区塩浜にあった 【絵:後藤 泱子】
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異性化糖の研究は、昭和34年に当時の食糧研究所(現食品総合研究所)津村信蔵(つむら のぶぞう)らによってはじめられた。ブドウ糖を果糖にかえるにはアルカリ法と酵素法が考えられたが、
津村は後者を選択する。早速、ブドウ糖を果糖にかえる酵素(グルコースイソメラーゼ)を生産する微生物の探索が始まった。
「当時の研究所には微生物用の振とう培養機は1台もなく、止むなく古いビタミン抽出用の振とう機を持ち出した。1回転するごとにガタン、ガタンとハデな音をたてるシロモノで、
これを出入りの商人に造らせた木箱に入れ、ヒヨコ電球と水銀調節器で保温して使用した」と津村は回顧する。
そんな環境でスタートした研究だが、これとおぼしき微生物をつぎつぎにブドウ糖液中で培養していった。培養液中にできた果糖の量を調べれば、酵素の能力を検定できる。
一見、単純そうだが、工業化に適するとなると、そう容易ではない。5年間の根気のいる研究の末、昭和39年、ついに貯蔵穀物から分離した放線菌を探し当てることに成功した。
津村らが見出したこの菌が生産する酵素は高温下でも安定的に働き、大量培養にも適する。まもなく大型の反応槽による長時間連続反応も可能になり、工業化に道を拓く結果になった。
今日、異性化糖は世界で1,200万トン(固形換算)が生産されている。国内の生産は80万トン、街角で私たちが手にする清涼飲料のほとんどが異性化糖を甘味源にしている。
その繁栄の原点の1つに、津村らの研究が位置づけられることは間違いあるまい。
だが一方、異性化糖産業の隆盛の陰で、国内のでん粉原料用サツマイモ生産が急減してしまったのはかなしい。いったんは高でん粉品種の育成とともに、サツマイモ生産を支えるかにみえた時期もあったのだが。
今では異性化糖のほとんどが安価な輸入コーン・スターチを原料にするようになってしまった。国際化時代の定めとはいいながら、ひどく割り切れない気がする。
津村は昭和61年、食品総合研究所長を最後に農林水産省を退官、今もお元気である。
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