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高品質で栽培しやすいビール麦

〜 「はるな二条」を育てた目黒友喜 〜


 ビールがおいしい季節である。日本人とビールの付き合いは、嘉永6年のペリー来航にはじまる。彼らの贈り物にビール3樽(たる)があったそうだから、 これがこの国で飲まれた最初のビールだろう。それから150年、今では世界第5位の消費大国で、毎年東京ドーム5.8杯分、1人当たり大瓶で89本も飲み干しているというから驚きである。

 日本人がこれほどビール好きになったのは、昭和30年代の後半からだろう。家庭用冷蔵庫の普及と食の多様化が、ビールを身近な飲み物に変えた。当然、原料用二条大麦の栽培も急増し、 つくりやすくて高品質な品種の育成が要望された。

イラスト

「はるな二条」が育成された新田試験地からは
榛名山がはるかに見える
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 サッポロビール株式会社原料試験所(現・植物工学研究所)の目黒友喜(めぐろ ともき)らが育成した「はるな二条」は、こうした期待にこたえた画期的な品種だった。 はるな二条が世に出たのは昭和553年である。昭和36年の交配だから、17年を要したことになる。育成地も成城(東京都世田谷区)から新田町(群馬県)に移っている。

 早生で短稈で、穂は短いが穂数が多く、倒伏にも強い。なかんずく品質は過去の品種に比べずば抜けてよかった。とかく高品質の品種は農家側からみるとつくりにくい。 その定説を打破したのが、この品種だった。

 はるな二条の交配親は〈良質だが長稈晩熟の穂重型系統〉と〈高エキスだが品質に難の多い穂数型品種〉、すべての形質が両極端の2系統の組み合わせだった。 普通、こうした組み合わせでは後代の分離が複雑になり、よほど大がかりな体制でないとねらい通りの選抜はできない。だが目黒は僅(わず)かな仲間とともに、 栽培・品質両面で両親をはるかにしのぐ品種をつくり上げた。

 とくにビール原料としての加工適性は卓越していた。麦芽エキスが多く、糖化性・発酵性がすぐれる点は世界的にみても最高水準にあった。長い経験に培われた目黒の観察眼が奇跡を呼び起こしたのだろう。

 目黒は育種の虫だったらしい。毎日、日の出とともに出勤、日暮れまで畑に立ちつくしていた。「麦の顔つきは朝晩で変わる。いつも圃場を見て回っていれば、 雀除(すずめよ)けもいらないし、草も生えない」というのが、彼の口癖だった。畑の土が踏み固められている所には、必ず彼が目をつけた系統がある、という伝説が今も伝わっている。

 人柄を伝えるこんな話もある。昭和51年、日本育種学会賞が目黒に授与された。育種家に与えられる最高の栄誉で、民間研究者初の受賞だった。ところが肝心な彼が育種学会員でなかった。 あわてた学会の要請でやっと入会、受賞に間に合わせたという。

 はるな二条は最高6,000ヘクタール普及したが、それ以上に後継品種の品質向上に貢献した点が評価される。食用ビール麦の全国面積は現在4万ヘクタールほどだが、 そのほとんどがこの品種の血を引く。ビールがおいしくなったのも、この品種の高品質が関係しているに違いない。海外でも、交配親として利用されているときく。

 目黒は所長退任後も顧問として後進の指導に当たっていたが、平成7年6月、麦秋の終わりとともに逝(い)った。あくまでもビール麦とともに生きた一筋の人生であった。
「農業共済新聞」 2001/06/13より転載  (西尾 敏彦)


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