ホーム読み物コーナー >  続・日本の「農」を拓いた先人たち > 良食味多収の水稲品種

良食味多収の水稲品種

〜 「ササニシキ」を育てた末永喜三 〜


イラスト

古川駅前に建つササニシキ顕彰碑。
傍らにササニシキ・ひとめぼれのミニ水田が並ぶ
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 東北新幹線の古川駅で降りると、構内のミニ水田が目につく。説明に「ササニシキ・ひとめぼれ誕生の地」とある。駅前の広場にはササニシキ顕彰碑が建ち、後ろの建物にはササニシキ資料館が設けられていた。 この両品種を、地元の人たちがいかに愛し、誇りにしているかがうかがわれ、心あたたまる思いがした。

 コシヒカリと並び、おいしい米の一方の雄とされたササニシキは、昭和38年、宮城県農試古川分場(現古川農業試験場)で育成された。育成者は末永喜三(すえなが きぞう)らである。

 今でこそ、おいしい米として名を残すササニシキだが、品種改良の当初のねらいは麦作跡の晩植用品種にあった。交配が行われた昭和28年当時、この地方でも稲麦二毛作が経営の主力になると考えられていたからである。

 交配親には、晩植適応性の高いハツニシキと多収のササシグレが選ばれている。この組み合わせは、選抜当初から「穂が黄金色に輝き、稔(みの)りのよいものが非常に多く、 注目を集めた」と、末永は回想している。だが、まもなく情勢は一変する。労力のかかる二毛作が農家に敬遠され、水稲単作で多収をねらう時代がやってきたのである。 末永らの育種目標も急遽(きゅうきょ)、普通栽培用多収品種の育成に切り代えられ、選抜がつづけられた。

 選抜は品種改良の作業の中で、もっとも重要だが、もっともつらい仕事でもある。とくに古川の水田は重粘で、水はけが悪かった。水田に入ると、両足に泥がこびりつき、 鉛の足かせをはめられたようで自由がきかない。乱れた稲株を一株ずつしごくように起こし、優良個体を選(よ)り分けていく。しごいた葉で手を切り、血がにじむこともしばしばあった。

 ササニシキが世に出たのは昭和38年だが、この品種が農家に知られるようになったのは、それよりも数年以前である。当時の農村は増産意欲に燃え、多収品種を求める農家の目はつねに試験場に注がれていた。 試作段階から前評判の高いこの品種をみようと、連日のように農家が試験場を訪れたという。当時の主力品種より5%以上増収したというから、期待の大きいのも当然だろう。 普及2年目には早くも1万6,000ヘクタールに達している。

 昭和40年代の後半になると、米過剰の時代が到来する。多収から良食味へ、流れが変わり、他の品種が失速していく中で、ササニシキは良食味米として、さらに栽培面積を伸ばしていった。 才色兼備という言葉があるが、つくりやすくておいしいササニシキは、まさしくそんな品種だった。二毛作時代から単作多収時代へ、多収から良食味時代へ、つぎつぎに時代の荒波を乗り越え、 東北の米づくりを支えてきた。まれにみる強運の品種である。

 ササニシキの名は、親品種のササシグレ・ハツニシキを結合したもの。最高時の平成2年は21万ヘクタール、コシヒカリについで全国2位の栽培面積を占めた。 最近は同じ古川農試育成のひとめぼれに席を譲ったが、すし米やコンビニ用として、なお根強い人気を保つ。

 末永は現在83歳。県農業センター所長を最後に退職、最近まで民間企業で品種改良を指導していた。今は、パソコン教室に挑戦中とか、元気はつらつの人生である。
「農業共済新聞」 2001/08/08より転載  (西尾 敏彦)


← 目次   ← 前の話   次の話 →