ホーム読み物コーナー >  続・日本の「農」を拓いた先人たち > 大豆育種にささげた19年

大豆育種にささげた19年

〜 御子柴公人が育てた「エンレイ」 〜


イラスト

「桔梗ヶ原」の名で親しまれた桔梗ヶ原分場、
現在は記念碑だけが建っている
【絵:後藤 泱子】


絵をクリックすると大きな画像がご覧いただけます。)
 桔梗ヶ原は長野県の中央部、塩尻市郊外に広がる台地である。昔は荒れ野だったが、明治以降開発が進み、今ではわが国有数の果樹地帯、ワイン生産地に変貌(へんぼう)している。 大正時代には、島木赤彦らアララギ派の歌人がこの地を散策し、歌作に耽(ふけ)ったという。

 桔梗ヶ原で大作をものにしたのは文人だけではない。この地で19年間、大豆育種一筋に打ち込んだ長野県農試桔梗ヶ原分場(現中信農業試験場)御子柴公人(みこしば きみと)も、 名作を残している。彼が育成した大豆品種「エンレイ」も、日本農業の不朽の名作に違いないからだ。

 桔梗ヶ原に大豆の育種試験地ができたのは、昭和32年のこと。当時おくれていた中部日本全域に向く品種の育成が、この試験地の任務だった。参集した研究者は4人だが、 全員が大豆育種の素人(しろうと)だった。今考えてみると、それがよかったのかもしれない。

 経験のない研究者が大豆育種に挑むには、みんなで勉強していくしかない。初代主任の川嶋良一(後の農林水産省技術会議事務局長)の音頭で、全員の勉強会がはじまった。 白樺(しらかば)に囲まれた作業室が彼らの勉強部屋だったという。毎日弁当2食を持参し、育種目標や育種方法について、夜12時近くまで意見をぶっつけ合った。

 御子柴はいつもその中心にいた。実は彼だけが、それでも大豆栽培の経験を持っていたからである。

 昭和36年になると、大豆は自由化され、国内生産が激減する。研究環境はきびしくなったが、彼らの意欲が衰えることはなかった。「逆境にあって、しっかり勉強し、地道に仕事ができた」と、 御子柴は回想している。

 ちょうど光合成研究が進み、新しい多収理論が生まれようとしていた時代である。これをいち早くとり入れて、新しい選抜法を工夫した。エンレイの多収性には、この選抜法も貢献しているに違いない。

 勉強はしかし、実際の育種で生かされなければ意味がない。桔梗ヶ原には「明るいうちは畑に出ろ」という伝統があるそうだが、その最も忠実な実行者が御子柴だった。 歴史に残る大品種を選び出した彼の目は、こうした環境で鍛え上げられたのだろう。

 昭和39年、御子柴は2代目の試験地主任に就任、名実ともに大豆育種の陣頭に立つ。大豆がふたたび日の目をみるようになったのは、その後の40年代後半からである。 米に代わる転換畑大豆作が奨励され、それに適した優良品種が切望されるようになった。エンレイはまさにこれにこたえた品種だった。

 エンレイは昭和46年に世に出た。大豆にはめずらしい広域適応性をもち、密植や多肥にも向くため、北陸関東の転換畑を中心に広く普及した。大粒で粒色もよいため、 煮豆や豆腐用としても評価が高い。作付面積は急伸し、昭和56年から平成2年まで全国1位、昭和62年には最高2.8万ヘクタールにまで達した。現在も1.6万ヘクタールが栽培されている。

 エンレイの名は、育成地近くの塩嶺峠と、粒が艶麗(えんれい)であることに因(ちな)む。御子柴は農業総合試験場長を最後に退職。郷里で農業を楽しんでいたが、平成11年、 71歳で亡くなった。みごとな白髪に、黒いベレー帽のよく似合う人だったが。
「農業共済新聞」 2001/10/10より転載  (西尾 敏彦)


← 目次   ← 前の話   次の話 →