日本中の農家に広く普及していた平型通風乾燥機 【絵:後藤 泱子】
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稲刈りが終わって、田んぼがさびしくなった。一時代前までは、まだこの時期、田んぼには稲架(はざ)が立ち並んでいたものだが。
稲架が消えたきっかけは「平型通風乾燥機」の普及にあったのではないだろうか。年輩の人なら、農家の納屋の隅に置かれていた3.3平方メートルほどの箱形乾燥機を思い出すことができるはず。
この乾燥機の普及が、生もみ乾燥を可能にし、自脱コンバインの普及を可能にした。コンバイン+乾燥機時代の到来が、稲架の風景を変えたといってよいのだろう。
ほんの一昔前までは、稲架で干した稲を脱穀、さらにむしろ干しして、平衡水分(14〜15%)に達するまで乾かすのが一般的だった。むしろ干し中は乾燥ムラを防ぐため、
撹拌(かくはん)も必要である。雨が降れば戸内に取り込まなければならない。そうでなくても多忙な農繁期に、これは大変な仕事だった。乾燥作業の機械化は、
当時の稲作改善に避けて通れない主要研究課題だったのである。
平型通風乾燥機は関東東山農業試験場農機具部(現生研機構)の渡辺鐵四郎(わたなべ てつしろう)によって開発された。研究は昭和25年にスタートした。<常温の空気を送るだけで、
もみ水分を平衡状態にまで下げる>のが、渡辺のねらいだった。戦時中、海軍の技術士官として航空機の設計にたずさわり、空気力学に精通していた彼の経験がここでは活(い)かされた。
渡辺は研究にきびしく、想定通りの結果が出ないと、納得がいくまで実験をくり返したという。こうした研究の積み重ねが平型通風乾燥機を完成させたのだろう。市販に移されたのは、
昭和31年のことである。
平型通風乾燥機は送風機と乾燥箱からなる。乾燥箱は箱の中段に<すのこ>を張った木製または鉄製の箱枠。すのこ上に、もみを貯留して、下から風を送る。送風機は購入しなければならないが、
乾燥箱は農家でもつくれる。少しでも安い機械を農家に提供したいというのが、渡辺の願いだった。
低価格で、雨天でも乾燥可能な通風乾燥機は農家に歓迎され、急速に普及していった。唯一の誤算は、農家がさらに乾燥のスピードアップを求めて、火力乾燥を選んだこと。
早期供出が奨励された当時の状況下では、これも仕方がないことだった。
通風乾燥機の普及にさらに拍車をかけたのは、昭和42年の自脱コンバインの発売である。生もみ脱穀が前提の自脱コンバインが出て、通風乾燥機の需要はさらに伸びた。
昭和41年にはすでに普及台数百万台を突破し、40年代後半には最高百80万台に達している。もっともこの急増は立型・循環式乾燥機など、より高能率の乾燥機の開発にもつながり、
平型はやがて姿を消すことになった。とはいえ、農業の機械乾燥に先鞭(せんべん)をつけた渡辺の功績は忘れられることがないだろう。
渡辺は長身で、スポーツと遊び事が大好き。仲間を誘っては、よく囲碁・麻雀に興じたという。気さくな人柄で、友人はもちろん、後輩にも「てっちゃん」と呼ばれるのを好んだ。
昭和53年、農業機械化研究所理事を最後に退職、平成11年に亡くなった。戦後の農業機械化に大きな足跡を残した、82年の生涯である。
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